天林山笠覆寺 『笠寺観音』

​​​名古屋市南区笠寺町

笠寺観音として知られる天林山笠覆寺
東海道沿いに南から名古屋城下に向かう玄関先の笠寺台地に鎮座します
名古屋城の鬼門を守る尾張四観音(甚目寺観音、荒子観音、笠寺観音、龍泉寺)のひとつ
 山門前の放生池に架かる太鼓橋
このあたりの桜は今年も見事に咲き誇り、四季を通じて一番艶やかな時期を迎えています
(2019/4/7)
 太鼓橋正面から山門全景
桜の見どころはなんといってもこのあたりになってしまいます
毎年ここの桜を楽しみにしているだけに写真が増えてしまうのはお許し願います
 放生池に架かる太鼓橋は以前は木橋だったそうです
現在は1806年(文化3)に寄進された美しい曲線を描く石橋
放生池の水面に浮かぶ花筏と太鼓橋も情緒があります
 太鼓橋から臨む本堂
山門の両脇で守りを固める仁王像、門全体も細かな彫が施されています
 山門右手の根が張り出した木々の先に鐘楼と弁財天
鐘楼は鎌倉時代に阿願上人の願によって作られたもので尾張三名鐘のひとつ
 山門から石段を登り本堂へ
 山号額と拝所に下げられた傘の紋が入った提灯
この紋や寺号の笠覆寺の名の始まりは
733年(天平5)呼続の浜辺に1本の流木が流れ着いた、その流木は夜な夜な不気味な光を放ち、それを見た住民は恐れていたそうです

それを知った近隣の​善光上人はその流木で十一面観世音菩薩像を造り、当時の粕畠(現在の笠寺から南へ約650m)の地に堂を建立し、観音様を安置した天林山小松寺から始まります

やがて堂は荒廃し安置した像は野ざらしとなり雨風に曝されていたと言います
ある雨の日、鳴海の長者のもとで働いていた娘は、ずぶ濡れの観音様を見かね、自ら被っていた笠を観音様に被せたそうです

後日、鳴海に寄った藤原兼平はその娘をみそめ、妻として迎え玉照姫と呼ばれたそうです
夫婦は荒廃した寺を現在の地に復興し、寺の名をそれまでの小松寺から「笠覆寺」と改めた事から始まりとされ、やがて笠寺観音の名で親しまれ笠寺の地名の起こりとなった境内には提灯以外にも縁となった笠の紋やレリーフを見る事が出来ます

その後も「笠覆寺」は鎌倉時代はじめ幾度かの荒廃、再建が繰り返され、現在の堂塔は江戸時代に建てられたものと言われます
 上段
本堂全景、手前の小堂は平成に入り再建された玉照殿
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玉照殿から西山門方向の眺め
 
西山門から境内に入った右側にある阿弥陀如来を祀る「多宝塔」
多宝塔左の「人質交換之碑」
今川家と敵対した織田家に捕らえられていた竹千代(徳川家康の幼名)と今川家が捕らえた織田信広の人質交換の場がここ「笠覆寺」で行われ、それを語り継ぐために建立された
 境内の右の六地蔵堂
地獄から天界まで、全ての生きる者たちの苦悩を救おうとする六種の姿のお地蔵様が彫られています
 本堂の左の「白山社」
白山大権現を祀り、堂内には「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿が祀られています
 白山社左の「延命地蔵堂」
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延命地蔵堂左の役行者を祀る「行者堂」
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西山門から笠寺観音商店街方向の門前町の眺め
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本堂右の境内に西向きに並ぶ三つのお堂、中央の白いお堂は詳細不明
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右から阿弥陀如来を祀る「善光寺堂」


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善光寺堂左に「宮本武蔵之碑」と芭蕉句碑
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三堂から少し離れた左に「如意輪堂」如意輪観音が安置されています
 三つ並ぶお堂の一番左が薬師如来を祀る「薬師堂」
「玉照殿」境内の建物では一番新しく、2002年(平成14)の再建
玉照姫・兼平公を祀り、堂の前には笠の彫が施されています
縁結び交際円満のパワースポットとして知られる
 「鐘楼」鎌倉時代に作られた梵鐘は、第二次世界大戦の供出を免れ現存も残る
尾張三名鐘のひとつと言われる 
 鐘楼の南側の「笠寺稲荷」
 笠寺稲荷の西向かいの「白龍社」
 白龍社の左隣が「弁財天」でここから左が放生池で小さな石橋の先は山門につながります

既に伽藍は記事にしたつもりでしたが、まだまだ紹介すべきところもありますが
今回は駆け足で一巡りとして平成最後の桜をもう一度みておきます
 山門から太鼓橋の桜
放生池に架かる太鼓橋と山門

天林山 笠覆寺 「笠寺観音」
宗派 / 真言宗 智山派
創建 / 733年(天平5)
本尊 / 十一面観音
住所 / 名古屋市南区笠寺町上新町83
アクセス / 名鉄本笠寺駅より徒歩10分 地下鉄桜通線「桜本町」から徒歩20分

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