信濃國一之宮 諏訪大社下社 春宮 3

長野県諏訪郡下諏訪町 諏訪大社下社春宮
諏訪大社二日目は参道の大鳥居の手前に建つ石燈籠から始まります
燈籠前の県道184号線は、春宮大門の信号待ちで通勤の車が列をなしています

車窓から見れば、朝っぱらから燈籠を眺める二人連れは異様に映るかもしれません
この石燈籠から北に大門通りを経て春宮、そこから旧中山道を経て秋宮、秋宮から大社通りの西にこの石灯篭
それを線で結ぶと三角形になり、その一辺の長さがほぼ八丁(872㍍)となるため三角八丁と呼ぶそうです
秋宮と春宮の分岐点ともいえるようです
車窓からの視線を感じながら石燈籠をじっくり見させてもらいます
この燈籠、よく見れば中台部分の四隅に茶系の握り拳大の飾りが付いている事に気が付きます
注視してみると、それは獅子頭の様にも見えます、あまり見かけた事のない飾りです
この部分だけ石質が違う様です
解説によれば「1829年(文政12)に山田金衛門の名作‣・・・・市街化に伴い地元有志により現在地に移動」との事
傘の反りが描く曲線は美しいものがあります
大門通りの交差点に立つ石鳥居、春宮はここから8丁先ということです
大門通り沿いの矢木町会館で見かけた「矢木神社」、
4本の御柱に囲まれた小さな社です
由緒碑より
「祭神は八杵命と申す、諏訪明神のお子様で、特に信濃國の開拓に功績のあった十三柱のお一人である
北方に神陵がと伝えられる神跡があり、近年まで矢木九町と云われた大郷はご神威のほどを忍ばせるものがある」
祭神 / 八杵命・創建 / 不明
住所 / 長野県諏訪郡​下諏訪町矢木町
意外に交通量の多い大門通り(184号線)、その先の道路中央に注連縄の飾られた建物と鳥居が見えてきます
道路中央で車線を分けるようにして立つ「下馬橋」
諏訪湖に向けて緩やかに下る大門通りの鳥居の前に建ち、綺麗な曲線を描く木造の屋根付きの反橋
現在は暗渠になり直接見ることはできませんが、その下の御手洗川の上に架けられています

その昔、殿様でも参拝時にはここで馬を降りなければならない場所であったためこの名が付いたと云われ
太鼓橋とも呼ばれるようです

1578年(天正6)の造営帳にもその記録が残り、元文年間(1736~1740)に改修されているようです
諏訪大社の中では最も古い建築とされ、宮大工の三井伝左衛門の手によるもの
住所 / 長野県諏訪郡​下諏訪町大門
下馬橋から鳥居方向に向かう県道の左側に手水舎
手水鉢には御神紋の四本の根の諏訪梶
正面には社号標と石鳥居、漸く境内が見えてきます
この石鳥居は「春宮の大鳥居」と呼ばれ、1659年(万治2)の建立と云われ
石造物では諏訪大社最古とされ、建造にあたっては神社西側にある「万治の石仏」の伝承も生まれています

鳥居前はあくまで一般道、なので結構なスピードで車が行き交います、後方と左右は要注意です
鳥居をくぐり境内へ
大きさ、容姿ともに立派で凛々しい警護担当、見向きもしていない
境内全景
正面の巨大な注連縄がかけられた建物は神楽殿
巨大な御柱は意識しなくても視界に入ります
「神楽殿」
江戸時代前期の1681年~1684年に建てられた切り妻造りの建物
派手な飾り金具のない、木の温もりを感じるものです
神楽殿横から幣拝殿・片拝殿の眺め
国の重要文化財に指定され、造営は下馬橋と同時期の1578年(天正6)とされます
神楽殿左の「筒粥殿」
毎年1月14日の夜から15日にかけ、ここに神職がこもり粥を炊き、葦筒に入れ作物の豊凶と世の中を占う
下社特殊神事の一つ筒粥神事の神粥炊き上げが行われる場
内部の土間は江戸時代初期のものといわれます
子安社
祭神 / 高志沼河姫神
建御名方神の母神の高志沼河姫神を祀り、底の抜けた柄杓はお産が楽にと安産祈願に奉納されます
昔から続くみしゃぐじ信仰、お産の守り神として今も親しまれています
幣拝殿と片拝殿の全景
二層檜皮葺の唐破風が施された切妻楼門造りの幣拝殿と左右の片拝殿の姿はシックでバランスのいい美しさがあります
この幣拝殿は間近で見ると棟梁の腕の見せ所と云わんばかりに細部まで見事な彫が施されています
地元の宮大工柴宮長左衛門によるもので秋宮幣拝殿より一年早い1780年(安永9)に落成したそうです
幣拝殿は春宮を柴宮長左衛門、秋宮が立川和四郎により建てられますが、同じ構造の社殿を作る二人の
匠は互いに腕を競いあったものと思います
春宮参拝です
主祭神 / 八坂刀売命
この先にある二棟の宝殿が見られる場所は見つけられませんでしたが
神明造りと云われ寅年と申年の年に左右の宝殿が遷座が行われるようです
御神紋の諏訪梶の根の数は下社では5本となります
御柱
次回の曳行は2022年の寅年です
結びの杉
一つの杉の株が途中から二手に分かれていることから夫婦に例えたもの
神楽殿右の若宮社(左)と上諏訪社
若宮社
祭神 / 建御名方彦神別命・伊豆早雄命・妻科比賣命・池生神・須波若彦神・片倉辺命・蓼科神・八杵命・内県神・外県神・大県神・意岐萩命・妻岐萩命
上諏訪社
祭神 / 建御名方神 
上諏訪社後方から幣拝殿の眺め
宝殿の千木、鰹木の一部だけ見ることができました
現在春宮の境内は社務所、トイレ等改修中
境内左てには工事事務所が立てられ、ビニールシートであちらこちら覆われ作業が行われています
下段の写真は工事事務所の陰になっていて帰りに気付いた建物ですが、詳細は不明

早朝に境内に入り時間が経つにつれ参拝客は多くなってきました

かみさんは御朱印を手に鳥居の前でスタンバイしています
春宮を後にして次に進むことにします
信濃國一之宮 諏訪大社 下社春宮

次の目的地は鳥居を出て右の浮島社を目指します
鳥居からものの2~3分も歩くと、春宮の西側を流れる砥川に出ます
砥川に架かる赤い橋を渡った中洲に御柱で囲われた小さな社「浮島社」が見えると思います
浮島社のある中洲へは砥川に架かる赤い橋を渡って行きます
訪れた10月初旬は川原の秋桜が咲き誇る時期でした
・・・・・? 崩壊しそうとは、恐るべし犬の小水
中洲に渡った左側の川原に秋葉大権現の石灯籠
浮島社参道
この中洲は中之島と呼ぶそうで、どんな大水が来ても水が付いた事はないそうな
正面の赤い橋を渡ると「万治の石仏」に至ります
浮島社
祭神 /  祓戸大神
橋を渡り右の小道を進んだ先の万治の石仏案内板とお参りの作法書き
案内板から少し登ると視界は開け、小さな田んぼの先に大きな石が見えてきます

「春宮の大鳥居」の伝承に繋がるもので
石鳥居を作るためにこの石にノミを打ち込んだところ、そこから血が流れ出た事から職人達は祟りをおそれた
その晩、夢枕で「上原山に良い石材がある」という夢を見た職人達が探しに行って見つけた石からこの石仏を阿弥陀如来として祀ったのが始まり
石仏の背面にはその時のノミの跡が残ると云われていますが、それを見つける事は出来ませんでした
一見モアイ像をイメージする素朴で温かみのある表情はとても印象に残る顔つきです
「万治」とは、この石仏に「南無阿弥陀仏 万治3年(1660)11月1日 願主 明誉浄光 心誉慶春」と刻まれている事から付けられたとされ、地名には石仏として残ります

諏訪を訪れた岡本太郎はこの像を見て絶賛した事から知られるようになり、それ以前は「阿弥陀様」として崇められてきたそうです、彼が絶賛したのも頷けるような気がします
この像の強烈な印象は小説家の新田次郎にも影響を与え小説にもなったようです
石仏を一周
個人的に斜めから見た顔がとても印象に残ります
見ようによつてはスフィンクスのようでもあり、ネス湖の恐竜の様に見えないでもない
不思議な巨岩です
万治の石仏に通じる砥川沿いに建つ岡本太郎揮毫の「万治の石仏」石碑
碑の裏には「峡の田に座して 石佛のどかなり 正人」と彫られています
まったくそのとおり
ここにいると時の流れが少しゆっくりと感じられます

万治の石仏
信濃國一之宮 諏訪大社下社春宮
四社巡りも二日目にしてようやく三社参拝する事ができました
さあ次は秋宮をめざして旧中山道を東に向かいます

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