江南市田代町郷中 「神明社」

 江南市田代町郷中の神明社

以前掲載した「久昌寺」の南に鎮座する。

神明社社頭。
道は社頭で突き当る、正面には石の神明鳥居と蕃塀と拝殿が見通せる。
ここまでの道の左右は民家が立ち並び、この道を南に進むと県道171号線が左右に伸び、左側に松社天神が鎮座する。
県道を渡り、更に南へ進むと南山神明社へ真っすぐに続いている。
門前町の趣が漂う道筋です。

田代町の神明社境内全景。
恐らく南北に長い社地で、東側は水田、西側と北側に住宅が点在するがまばらに水田が残っている。

これは初めて見る、蕃塀なんだろう。
神域を壁で見通せなくし、真っすぐに進ませない見慣れた蕃塀から見ると随分様式が違う。

入母屋瓦葺の拝殿とその先に切妻瓦葺の覆屋が伽藍のようだ。

四方吹き抜けの妻入りの拝殿。
額は付かないシンプルなもので、ひょっとすると拝殿ではなく神楽殿かもしれない。
ここでは拝殿として記載を続けます。

拝殿から本殿方向の眺め。
拝殿内には由緒らしき額は掲げられていなかった。
手前に石灯籠と一段高く基礎が作られ、その上に覆屋が建てられ、正面は透塀、他は板垣に囲まれている。内部には朱塗りの本殿が見える。

江南市の解説によると
「神明社は小折の田代町郷中にあり、『神社明細書』によれば、明応年間(1492~1501)生駒家広が領主としてこの地に居住するにあたり、守護神として勧請(かんじょう)した社ということです。
『尾張徇行記』によれば「当村五社祠官山田和泉書上ニ神明外宮社五畝歩、神明内宮社内九畝六・・・」と記されています。
即ち小折村には二つの神明社があり、それは外宮(南山神明社)と内宮(当神明社)でいづれも生駒家代々の氏神であった訳です。
勧請したのは明応のころというだけで年代は定かではありませんが、慶長15年(1610)第五代目生駒因幡守利豊の時に再建した古記録が残っています。
また、当神社には宝暦3年(1753)及び文化10年(1813)の屋根葺き替え工事の際の棟札が残っています。
平成17年には覆屋も含めた全体の修理を行い、かつての鮮やかな朱色がよみがえっています。
一間社神明造りでこの種の古い建物が残っているのは珍しいといわれています。

尾張名所図会久昌寺絵図。
黄色の久昌寺の上には神明社を氏神として祀った生駒氏の屋敷(小折城)があった。
内宮とされる赤く塗った郷中の神明社は確かに描かれ、外宮とされる南山神明社は切れて描かれていないが郷中の神明社の下に位置している。
描かれた絵と現在を比べても昔の面影は今も色濃く残っている。

檜皮の赤い本殿は神明造で内削ぎの千木が付く。
右手に解説が掲げられています。


「神明社本殿 江南市田代町郷中114番地
 指定文化財 昭和59年3月21日指定 
一間社神明造 檜皮葺
 当地には、もと内宮と外宮があり、尾張徇行記には「此両社生駒家代々氏神、勧請の年歴は不伝、再建は慶長15年(1610)生駒因幡守利豊造営地也」とあって、これはそのうちの内宮にあたり、再建当時のものとみられます。
 宝暦3年(1753)及び文化10年(1813)の屋根葺き替えの棟札があります。
このように時代の古い神明造が残されているのは珍しく、保護のうえから、瓦葺きの覆屋に納められています。 昭和4年5月江南市教育委員会」
とある。

本殿の全容は板垣もあり見る事はできませんが、平成17年(2005)に葺き替えられた屋根や朱塗りも色鮮やかな状態、覆屋はしっかり本殿を守っているようです。

佇む姿からはそれほど歴史があるとは思えなかったが、一帯は生駒家と深いかかわりのある寺社が残っている。

名古屋から少し時間はかかるけれど、田んぼが育む蛙やトンボ、見知らぬ花など街中から消えた光景がまだまだ残っている。
2021/8/31

「神明社」江南市田代町郷中
創建 / 不明
祭神 / 天照大神
所在地 / 江南市田代町郷中114
公共交通機関アクセス / ​名鉄犬山線布袋駅から南東に徒歩22分程
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