豊山町青山 八剱神社

 常安寺から北に流れる大山川を越え豊山町青山に鎮座する八剱神社は徒歩で20分程。


八剱神社(赤印)の鎮座地は大山川右岸に位置し、現在の所在地は豊山町青山。

左の1891年当時は青山村、1906年(明治39)豊場村と青山村の二つの村が合併。
豊場の「豊」と青山の「山」を合わせ豊山村として纏まり、1972年(昭和47)の町制施行により豊山町になった。
明治の地図にも鳥居は記され、創建は古そうです。
江戸末期の青山村は上青山と下青山の二つに分かれていたようで、何れも米の収量は多かったようです。
鎮座地は集落の北外れに位置し、昔から周辺は大きく変わっていないようで、今も北側には田畑が広がっています。

南北に集落を貫く様に道が伸び、その東側に八剱神社の社頭があり、社務所は道路の左側にある。
社地は南北に長く、社頭に石の神明鳥居と右に「村社八剱神社」の社標。
写真では切れているが、社標の右に馬頭観音と地蔵菩薩を安置した堂が建っている。(別途纏める事に)

鳥居をくぐり境内へ。
鳥居の寄進は1928年(昭和3)

豊山町文化研究会による八剱神社解説。
・祭神 須佐之男命
・由緒 きわめて古くからの宮居で古墳であったと思われる。八重垣を巡らし、整地の入口に水戸を設けた。嘗ての社叢は檜の大木が多かったので、木陰を利用し児童指導の夏季林間学校にもなっていた。

古墳だったようだがフラットな境内にそれを感じさせるものは何も残ってはいなかった。
この一帯は古くから人が住み、周辺には日吉神社古墳や殿邑古墳跡などの円墳があるが、何れも開発に伴い原形を留めていない。富士神社鎮座地の豊場青塚古墳が辛うじて古墳の雰囲気は漂っている。

境内全景。
正面に蕃塀、四方吹き抜けの切妻瓦葺拝殿、本殿域を囲む透塀は祭文殿に繋がり、流造の本殿が祀られる尾張造り伽藍。

参道左側に手水鉢、鉢に清水を注ぐ蛇口は石臼を利用し取り付けられている
鉢には文化6年(1809)と彫られている。
境内寄進物の年代ではこの鉢が一番古かった。

手水鉢の先の社は御嶽神社だろうか。
役行者、不動明王像、霊神碑が安置されています。

御嶽神社右のこの社、社名札はなく不明。

郊外で昔から続く神社なので境内は奥行きがある。蕃塀と拝殿は随分奥にある。

石の蕃塀は1921年(大正10)ら寄進されたもの。
周囲を玉垣で囲われた四方吹き抜けの妻入りの拝殿。

鬼は「八剱社」、軒丸瓦に「八」が入る。

枓栱は二手先で組まれ、拝殿妻側の壁面に見事な彫が施されている。
派手な飾り金具はないがシックで手の込んだ造りが施されている。

拝殿から本殿域の眺め。
格子扉の先に本殿が見え、本殿域を守護する狛犬の姿もある。
極めて古くからの宮居と云う八剱神社、その由緒に関して特に記されたものはないようで、地史など調べて見たが記述は見つけられなかった。
なので祭神は冒頭の由緒に従い須佐之男命なのだろう。
創建時期についても境内で確認できたもので最古のものは手水鉢の文化6年(1809)が最も古かった。
古来から青山集落の発展を見守ってきた神社だろう。

綺麗に纏まった拝殿から本殿域の眺め。
拝殿左に堂らしき建物があるようだ。

切妻瓦葺の平入祭文殿、瓦葺の透塀と一体となり本殿域を囲んでいる。

本殿域を守護する落ち着いた風貌の狛犬は1906年(明治39)。

本殿域。
流造の本殿と右に1社、左に2社の板宮造りの社が祀られているが、御嶽神社同様札はなく詳細は不明。

拝殿から社頭の眺め。この先は大山川だ。

本殿域西側からの眺め、後方が児童遊園で建物が建たない、防風林のように杜が境内外周を覆っているがとても解放感があり居心地のいい神社。

児童遊園から社頭方向を眺める。
ソメイヨシノの古木もあり、間もなくピンクの花が彩りを添えてくれるだろう。

拝殿左に見えていた建物は役行者を安置する御堂。
台座に文字が刻まれていたが読み取れなかった。

この豊山町一帯、道すがらの堂の多さなど信仰心の篤い土地柄なのが現れている。
信仰心の薄い自分ですが、手を合わせていると不思議に頭の中の雑念が消えて軽い頭がさらに軽くなる。
現役時代、頭の整理が出来なくなると作法は知らないが座禅を組んだものだ、それは不思議に楽にしてくれたものだ。
それは氾濫する情報や幻想から遮断する事なのかもしれない。
昨今の状況は三猿になりたくなるような愚行ばかりだ。頭の薄い狐や可愛い顔した熊さん、悶々と考え込まず一緒に座禅でも組んで見よう。

豊山町青山 八剱神社
創建 / 不明
祭神 / 須佐之男命
境内社 / 不明社4社
所在地 / ​西春日井郡豊山町青山​1633
常安寺から徒歩ルート / ​大山川を越え20分程 
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