「大日山日龍峯寺」岐阜県関市下之保

岐阜県関市下之保「大日山日龍峯寺」こちらに向かう道すがらには「ゆく年くる年で紹介された・・・・・」の看板が案内してくれます
海抜283mの高沢山山頂に位置し、この山より眺める飛騨、美濃、伊吹、養老の連山の眺望は美しいと云われる
訪れた当日は前日の雨が残り、残念ながら山々の眺望を望む事ができなかった
とはいえ水蒸気が立ち昇る山々の光景は幽境の観音霊場にふさわしい姿を見せてくれます
 駐車場からは徒歩で道路を下り仁王門から参拝する事に
仁王門までの道路脇は鮮やかな新緑が目を楽しませてくれます
 駐車場に掲げられている境内案内板
高沢山の尾根沿いに境内が広がり、今回案内板の中央に描かれた仁王門から境内を巡っていきます
 駐車場を5分程下ると緑に包まれた空間に瓦葺の仁王門が現れます
 地元では「高澤観音」と親しみを込めて呼ばれている日龍峯寺、仁王門から参道の眺め
1718年(亨保三年)建立のこの仁王門、天井絵と仁王様は必見
 
日龍峯寺は美濃西国三十三ヶ所一番札所で中濃八十八ケ所の六十一札所である観音霊場
その門に納められている仁王像、傷みが進み痛々しいものです
「朽ち果てる前に修復の手を入れてくれ」、吽形像の表情が訴えているようにも見えます 
 仁王門の天井に飾られた奉納額の数々
年代の読み取れるもので1811年(文化8)の物があります
 随分と退色が進んでしまっていますが、デジタル保存するされているものなのか気になるところ
先人が書きとめた記録は記憶だけではなく、次の世代にも残してあげたいものです
 雪暉画と入ったものが多く、この辺りの絵師を調べて見ましたが人物像を私には掴めませんでしたが
気取った画風ではなく素朴な画風は受け入れやすいものです
 約200年を経た現在もその色合いを留めます
 仁王門から急な石段が続きます、寺の紹介では石段は300段との事です
登り口には藤棚があり、藤の時期に訪れるとこの絵も鮮やかな表情を見せてくれる事でしょう
 早朝までの雨の影響から石段脇の崖からは盛んに水が染み出ています
その湧水を受けた苔も生き生きしています
 急な石段もしばらくの辛抱です
やがて左側の崖は開け、見上げれば山肌にへばり付くように間近に本殿が見えて来ます
もう少しの辛抱です
 緑が鮮やかな竹林を背景に建つ苔むした石灯籠
これが見えれば境内は間もなくです
 この石段を上がれば境内です
 石段を上り境内へ
最初に視線が行くのは右手の石畳の先に佇む多宝塔かもしれませんが
まずは本堂へ向かいます
 本堂と境内の全景
手前の御神木「千本桧」の先に岩山の傾斜地に石積みされた基礎の上に屋台造りの本殿が建っています
岐阜県最古の寺で、入母屋造りで桧皮葺の本堂前方の舞台造りは京都の清水寺に似ていることから、美濃清水とも呼ばれるようです
 本堂の下に手水舎、手水鉢、清水は山から絶え間なく注がれています
上段左は鉈尾山城三代目城主佐藤才治郎方政公と武将の塔
関ヶ原の合戦400年忌に荒れ果てていた塔をこちらの境内に纏め供養したもの
 本堂は北条政子によって寄進されたものですが応仁文明の乱で焼失し、現在の本堂は1670年(寛文十)に再建されたもの
至る所に痛みが進行していますが、参拝制限もなく左の階段から参拝が許されています
 この寺の創建は古く、仁徳天皇(313~399)に遡ると云われます
当時の美濃国で日本書紀に記された両面宿儺という豪族がいたそうですが、この地には住民を苦しめていた龍神いたそうで、それを聞いた両面宿儺はその龍神を退治
龍神が住んでいた高沢山に祠を建てたのが起源とされ、後の鎌倉時代に北条政子がこの寺で雨乞い祈願を行ったことから再興されたと伝えられています

傾斜に聳え立つ本堂
回廊の手前から、先人が築いた舞台を支える見事な木組み、石組を間近に見る事が出来ます
本堂には左の回廊を上ります
 多くの奉納額が飾られた、本堂全景
 明治に入って奉納されたものが多いようです
 本殿拝所の天井に描かれた天井画、描かれた年代は不明
 「びんずる様(さすり仏)」
本堂の外陣奥に祀られている木像で16羅漢の一人「賓頭盧 頗羅堕」の事です
食堂や本堂の外陣や回廊に祀られる事が多く、自身が病んでいる患部と同じ所を撫でる事で治癒すると言う風習があります
傍で見ると不気味な像にも見えますが「びんずる様」は自らの身を削り、病に苦しむ信者を治してきた証なのかもしれません、左手は既に修復を受けた様です
 上段 籠堂
本堂の右に位置し、本堂同様に舞台造りです
1806年(文化3)に建立されたこの堂は、信者や行者等がこもって祈願、修行する場として建立されました
 堂内には千手観音(上段)、子安観音像(下段)など安置されています
 本堂と籠堂の薄暗い空間から外光の降り注ぐ本堂後方に出る事が出来ます
 上段「みたらしの水」
本堂の裏の岩壁の隙間の先に岩肌からこんこんと湧き出ている霊水
この霊水を飲むことで、眼病、ぼけ封じ、子宝、病気平癒に特に効くと云われています

「みたらしの水」の奥は「宝筺印塔」
1333年の建立で宝筺印塔の中には、源頼朝を分骨埋葬したと伝えられていて岐阜県指定重要文化財となっています
 本堂後方の堂内には「みたらしの水」を向いて弁才天が祀られています
 上段 白山鎮守社
1534年(天文3)の建立と云われ、籠堂の裏手から右に進んだ急峻な斜面に鎮座する
そこからは本堂前の境内が一望でき、見上げるような千本桧もここからだと眼下となります
天気さえよければ眼前には美濃の山並みの眺望が広がるのでは
ここからもう少しハイキングコースを上ると龍神池に行く事ができます
 本堂の境内から右に続く石畳を登ると左側に多宝塔が見えて来ます
宝珠までの総高が14.7㍍の二層の塔で寺伝によると以下となります
「鎌倉時代に全国で旱魃により飢餓が多く困惑していた時、尼将軍の北条政子の夢枕に神龍現れ「日龍峯寺に池有り、法華経を書写し供養してかの池に入れれば多雨たちまち降りなん」と告げ池に飛入するを見て目が覚めあり。政子はお告げの通りに供養すると霊雨降りて五穀が実り飢餓を免れました。将軍家より謝礼として荒廃しつつあった七堂伽藍が再興されたと云われます。鎌倉時代を代表する全国屈指の建造物です。」
その塔も応仁・文明の乱(1467~1477年)で多宝塔以外の伽藍を焼失し、後に随時再建されていきますが
この多宝塔は北条政子が再興した当時のままの姿を留めています
明治27年国特別保護建造物指定、昭和25年重要文化財の指定を受け、日龍峯寺を代表する建造物の一つ

塔の屋根からは水蒸気が立ち上り神々しさが漂います
 金毘羅堂
多宝塔の右隣りに鎮座し、切妻瓦葺の吹き抜け拝殿と流造りの本殿で構成されています
豆千代家先祖の寄進により1820年(文政3)建立されたと云われます
 上段
尾根道に建つ多宝塔と金毘羅堂の全景
下段
金比羅堂から右に続く東参道、地蔵の先は薬師堂で、その先は不動堂へと続いて行きます
 薬師堂
1688年(貞亨五)年建立の瓦葺寄棟造りで、以前は表参道の薬師丘にあったと伝えられています
堂内には薬師如来坐像、日光菩薩、月光菩薩が祀られています
 薬師堂から見た東参道、手前に不動堂その先は鐘楼へと続きます
 不動堂
瓦葺き切妻の建物、東参道に立つ堂としては最後になり、この先は鐘楼へと続きます
1793年(寛政5)に建立され、堂内には不動明王像が祀られています
 鐘楼
瓦葺入母屋造りの鐘楼は袴腰つきのもので、東参道の外れにあたる尾根筋に建てられています
現在の鐘楼は1931年(昭和6)に消失し、1936年(昭和11)に再建されたもので、鎌倉時代に流行った袴腰付の鐘楼は消失以前の姿を再現し再建されたものと思われます
参拝者であれば自由に入り鐘を突くことができ、その音色は余韻を残し静かな山々に響き渡ります
 此処に着く前に「力強い」鐘の音が山々に鳴り響いていました・・・・・かみさんでした
鐘楼前にはマナーが書かれています、マナーを守って突かせてもらいましょう
早速、せ~ので「ゴ~~~ン」(ただ今鐘楼到着で~ス)余韻のある綺麗な音色です
ストレスが溜まっている方、こちらで一突きするとスッキリしますよ
 東参道から望む山々は・・・・・霞んでるね
鐘楼から右手の下り坂を降りていくと庫裡へと続きます
 庫裡
こちらで御朱印を頂きます
こちらでは毎月第三日曜日の11:00~14:00限定で手打ち蕎麦が頂けるそうです(もちろん有料です)
手打ちそば大盛(小鉢二品付き)900円とか
御朱印を頂き、そのまま真っ直ぐ下ると駐車場に至ります
仁王門まで下り、300段の石段を昇る事無くショーカットできますので石段を避けたい方はこちらから
新緑の時期に初めて訪れた日龍峯寺
四季折々に違う表情を見せてくれる気がします、また訪れたいと思う寺です
2019/4/25

大日山日龍峯寺
創建 / 五世紀前半と伝わる
宗派 / 高野山真言宗
本尊 / 千手千眼観世音菩薩
住所 / ​岐阜県関市下之保4585

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