「光雲山 日輪寺」
春日井市二子町
名鉄小牧線「味鋺」駅から高架沿いに二子山公園方向に北へ徒歩10分程
道は高架の下をくくる交差点となり、左に曲がると白山神社の北側に回り込みます
その道を西に進むと右側に赤い山門と鐘楼のある寺が「天台宗光雲山日輪寺」になります
白山神社とは道路を挟んだ北向いになります
日輪寺と白山神社の位置関係は何かしらの係わりがあるの?思うのは自然な事で
事実この寺は神仏分離までは白山神社の別当寺を務めていたそうです
なので白山神社を訪れる前に日輪寺を最初に訪れる事にします
県営名古屋空港も近い事もあり、普段見かける豆粒の様な航空機
ここでは空気を揺らす様な爆音と共に、有りえない距離感で頭上を飛び交います
日綸寺全景
切妻瓦葺の山門の赤が特徴的で、手前の常夜灯は古くは山門から白山神社に続く参道に建っていた江戸時代末期のもので天照皇大神宮と記されています
参道を横切るように車道が整備される際に、現在の山門前に移設されたものらしい
山門の左に寺号標、右に小さな堂が建ち、左右に赤い「地蔵菩薩」の幟が風になびいています
赤い山門から本堂の眺め
参道正面に寄棟瓦葺の本堂と左に鐘楼と大師堂、右手が手水舎と庫裏の伽藍
手水舎と後方の庫裏
左手の入母屋造りの鐘楼
今は周囲が開けているけれど、その昔は山門から白山神社に続く参道が伸びていたそうです
参道脇には松並木が続き、木々の間から僅かに差し込む陽光が、鐘楼や境内を照らす程に松に包まれていたようです
当時のこの周辺は古くから人が住み、一帯には多くの古墳が点在する小高い丘陵地と、その下に荒地が広がっていたそうで味鋺原とも呼ばれ、1879年(明治12)木津用水の一期工事以降漸く開墾され新田に生まれ変わります
長閑な田園風景の中、日綸寺の鐘の音は響き渡っていたようです
現在の本堂は、1891年の濃尾大地震で被災後に再建された様です
その後も伊勢湾台風等で甚大な被害を受けるも、都度修復の手が加えられ今の姿を伝えています
手挟に彫られた水波などシックな彫が見られます
こうした彫が施されるのはアクセントのみならず、思いが込められています
例えば、波や雲のデザインは火の災いから免れる様にであったり、動物や自然をモチーフに施される
木鼻に獅子や獏など施すのも意図があり、職人の腕の見せ所でもある
「光雲山」山号額
日輪寺は1660年(万治3)、味鋺村にあった満願寺を移転し、小田井村の天台宗願王寺から山号を承け光雲山日輪寺と称したそうです
「栄秀」阿闍梨が寺を開き、当時は願王寺の末寺
栄秀和尚は味鋺原の粟や稗しか育たない土地から新田開発に尽力されたようです
本堂の眺め
本尊は地蔵菩薩
1672年(寛文12)の栄盛和尚の代に、洪水で朝宮に流れ着いた地蔵菩薩像を勧請し本尊としたと云われますが諸説ある様です
1804年(文化元)の真純和尚の代に、現在の春日井市熊野町にある密蔵院の末寺になった様ですが
1952年(昭和27)、比叡山延暦寺の末寺となり現在に至っています
今も白山神社と深い繋がりがあるようです
本堂西側に建つ切妻瓦葺の堂
正式な呼称は分かりませんのでここでは「大師堂」としておきます
1891年の濃尾大地震で本堂被災時に仮堂を設けたようです、それがこの建物かもしれません
堂には弘法大師の事跡を巡礼する「西国三十三巡礼記念」の額が掲げられています
堂内の大師像と鬼の夫婦を従えた役行像が安置されています
本堂から南の赤い山門の眺め、道路の先は白山神社境内へ続いていきます
「日輪寺」
開基 / 1660年(万治3)
宗派 / 天台宗
山号 / 光雲山
本尊 / 地蔵菩薩
住所 / 春日井市二子町2丁目12-3
アクセス / 名鉄小牧線味鋺駅から徒歩10分
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