春日井市勝川町 『観音堂』

春日井市勝川町3
JR勝川駅からだと南西に徒歩で15分程の住宅街の中に勝川公園があります
今回は公園西側の勝川南部学習等供用施設の敷地内にある観音堂に向かいます
少し北には東名阪自動車道とその下には国道302号が走っています
今は区画整理により綺麗な住宅街の趣きですが、この一帯は過去に兜塚といわれ、野墓もあった地域
日頃何気に通っていても、過去にそうした場所だったとは全く知らなかった

それを教えてくれた地蔵堂は勝川公園南側の交差点角にあります
勝川南部学習等供用施設の敷地の南の一画に小さな瓦葺の堂が目的地
堂前には右に半僧坊大権現、左に金毘羅大権現の石標が建っています
堂は扉が閉じられ内部を窺う事はできません
堂の左は奥に広がりを持ち、左に地蔵が並び、その右奥には小振りな地蔵が多数安置された地蔵堂?があります
左の地蔵は全部で七体あり、横一列に安置されています
 いずれも御揃いの前掛けが付けられ、公園のある東側を向いています
一番右の地蔵には、「元禄五年(1692)申三月十五日勝川村念佛講」と彫られています
後方にこの地蔵に纏わる「六地蔵様」の解説板
六? 歳なりに白内障が始まったおやじの目には七つあるのだが・・・・・
六地蔵の後方に温故知新碑
そこには以下の様に記されていました
「ここ勝川はその昔、賀智里といって早くから開けた村で、庄内川や地蔵川などのお蔭で穀倉地帯であったが、一たん大雨が降ると、きまって河川が氾濫して折角の美田も土砂に埋まり、家や寺も幾度か危険にさらされてきた
それでも村の人たちは、この土地を見捨てないで、共同して復興に努め、以前に勝る肥よくな田畑をよみがえらせてきた
こうした厳しい水との戦に明け暮れた村の人たちの間に、自然に培われた根性は、土地への強い愛着心と、強固な結束力であった
史上希な惣中結成の大業はこれを端的に物語るもので、あたかも勝川を象徴するかのように今だにその名をとどめている
中世になって、下街道の中継場として栄え旅館業や飛脚、馬喰など職業も多様化し、村は活気を呈した
古書には戸数135、人口694、馬28とある
はるか元禄の昔、ここ兜塚の一角を選定して祖先永眠の聖地としてから悠久288年間続いた野墓は、昭和56年秋、春日井都市計画勝川土地区画整理事業の一環として取り除かれ、潮見坂墓園や檀那寺境内へそれぞれ集団で移転した
この画期的大事業は勝川の歴史を塗りかえて、明日への躍進を約束してくれることであろう
昭和57年4月」

温故知新、古きをたずねて新しきを知る
自分の中では久しく忘れていた言葉を思い出させてくれた
それにしても碑に刻まれている「画期的大事業」とは土地区画整理事業を指すのだろうか?
六地蔵様の右奥は地蔵堂ではなく、観音さまを安置した観音堂でした
堂内には十二体の石の観音様が安置されています
堂内壁面に空海と観音像が彫られた木片が掛けられていますが詳細は分からない
 こちらも何か書かれてるが内容は分からない
 お堂の中の説明文によれば次のとおりである
「……この地に遷された数基の「お観音様」の中に天明や文化の年代に勝川村念佛講建立と記されたものがあり、古書には当時の村人は五百余人とある。
念仏講による観音建立は村人の暮らしの中にあり観音信仰として深く結びついていた証である。
徳川、明治、大正、昭和と180余年の歳月をへた今日なお香華を手向ける者が絶えないのは「観世音」の名を唱える者は全ての危難から逃れ「観世音」に敬礼する者は福徳の得ると教示・・・・・・
ここに安置されている「お観音様」は200年近くの歳月を経た今日正確な識別は至難であるが、阿弥陀佛を中心として左に観世音菩薩、右に勢至菩薩を配した阿弥陀三尊と七観音と称される聖(正、大慈)、十一面、不空羂索、千手、馬頭、如意輪、准胝の七観音と思われる。
・・・・・昭和35年伊勢湾台風後に建物を再建した記録・・・・・。
昭和六十一年三月吉日観音堂移転対策委員会」

「お観音様」を中心に、良くも悪くも念仏講が広く信仰された事が温故知新碑に刻まれた「強固な結束力」の一つとなっていたのかもしれない
これらが何処から遷されてきたものなのかまでは記されていない
境内から勝川公園の眺め、金毘羅大権現の石標に昭和61年と63年の年号が分かる
観音堂移転とされる年号である、何処から遷されてきたものなのか気になる
近隣にある太清寺で尋ねると分かるのかも知れない
「古きをたずねて新しきを知る」・・・・・
分からない事がまた一つ増えた

観音堂
住所 / ​春日井市勝川町3-17

コメント

人気の投稿