紀三井寺 西国三十三所第2番札所
2020/06/26一泊二日で和歌山県の一之宮を訪れてきました。
ここは和歌山市紀三井寺1201「紀三井寺」の鎮座地。
古くから信仰を集めてきた紀三井寺、石畳が続く参道は門前町の趣が漂います。
紀州徳川家代々の藩主から庶民まで、多くの人が祈願に訪れてきた紀三井寺、コロナ禍の影響からか、どの店もシャッターが下り閑散として賑わいはない。
西国観音霊場三十三箇所の2番礼所として広く知られ、救世観音宗の総本山。
紀三井寺は、770年(宝亀元年)、唐層の為光(いこう)上人によって開かれ、和歌山城からほど近い事から歴代藩主は紀州徳川家の繁栄を祈願し訪れていた、紀三井寺は徳川家から手厚く守られてきた。
ざんげと招福の水場
楼門に続く石段の手前の右に錫杖を持った白衣観音が安置されています。
手水鉢に注がれる清水には罪を洗い流すご利益があると云う。
祇園社
ざんげと招福の水場の右に鎮座する。
その昔、印度でお釈迦様を初め諸弟子の住居となった祇園精舎なる寺があり、 守護神として牛頭天王をまつる仏法が我が国に伝えられ、平安時代に疫病が天下に流行した際に、 京都祇園の牛頭天王を祀りて霊験あり国内に祇園社が多く建立され、人々から親しまれる。
紀三井寺にも古くより祇園社があり、悪病退散、諸人の幸福を願い復興した。
楼門
参道から僅かばかりの石段を登った先に朱塗りの楼門。
そこから境内まで一直線に石段が続きます、その数231段と云われています。
楼門までの石段はそれに含まれてはいません。
楼門の左手に、閻魔大王像がこちらを睨んでいます。
西国三十三所開創伝説の中で閻魔大王は、病で冥土の入口にやってきた長谷寺の徳道上人に、三十三所巡りをすることは滅罪の功徳がある、これを広めて巡礼によって民の罪を減じるように諭したとされ、上人を現世に送り返したと云われます。
現在の三十三所巡りは、この閻魔大王と徳道上人により開創されたと云ってもいい。
楼門の仁王像。
作者等の詳細は調べきれていません。
室町時代末期の1509年(永正6)に建立され、1559年(永禄2)に修理の手が入れられた。
その後も幾度か修理を受け、現在の姿を保っています。
瓦葺の入母屋造の建物で、楼門一層に扉はなく常時開け放たれています。
二層は高欄付きの縁が設けられた通路など、安土桃山時代の様式が見られます。
結縁坂
楼門をくぐると目の前に名草山中腹の境内に繋がる231段の階段が現れる。
この坂には謂れがあり、その昔、まだ貧しかった紀の国屋文左衛門の若かりし頃、母を背負いこの石段を登り観音様にお参りしていた。
ある日、その日もまた母を背負い登っている途中で草履の鼻緒が切れてしまったという。
困り果てていたところ、偶然通りかかった玉津島神社の宮司の娘「おかよ」が、鼻緒をすげ替え助けてくれたそうです。
それが縁で二人は結ばれ、ここから紀の国屋文左衛門は大成していくことになります。
そうしたことから結縁坂と称され、縁結びのパワースポットになっているようです。
その結縁坂の石段の途中には善寿院、松樹院、宝蔵院、滝本院、穀屋寺、普門院や寺の名の所以でもある三つの井戸「三井水」等があり、それらを訪れて行けば、231段たいしたことはない?
但し斜度はそこそこあり、とてもじゃないが母を背負って登るのは並大抵ではない。
普門院
七鈴観音と呼ばれる「十一面観世音菩薩像」が祀られている。
切妻瓦葺の小さな建物の穀屋寺。
地蔵菩薩と聖徳太子を祀ります。
穀屋寺紙本著色紀三井寺縁起絵図の解説
亡者を裁く10人の王を描いた「十王図」10枚の絵図があり、閻羅王、都市王、五道転輪王の3幅を所蔵し、それらは市の文化財に指定されているそうです。
この辺りから見た楼門全景。
境内までは高く積まれた石垣と石段が続きます。
瀧本院
船で生業をなす方々からは航海の安全にご利益があり崇められていますが諸々の災い除けとして広く崇められているようです。波切不動と清浄水の御朱印はこちらで。
白龍大明神
後方に聳える樹は護国院開基以来の「王同樹」、「おうどうじゅ」とは聞きなれないけれど、楠科のタブノキだそうだ。
為光上人が竜宮へ説法に行かれ、龍神からお礼に贈られた七種の宝物の内の一つとされ、この木の葉を煎じて飲んだり、身に着けることで病から守っていただける薬となると云われる霊木です。
三井水(写真は清浄水)
日本名水百選に選ばれている「清浄水・吉祥水・楊柳水」、名草山から湧き出る自然からの恵みです。
石段脇には不動明王や地蔵尊、石塔などが安置されています。
松樹院
瓦葺の入母屋造りで身代わり大師の御朱印はこちらです。
宝蔵院
内陣右には真っ赤な炎を背にした不動明王が印象に残ります。
ここから楼門方向の眺め、見下ろすように急峻な石段です、手摺は持った方が賢明です。
結縁坂を登り切って最初に現れるのが六角堂。
1751年(寛延4)の建立、内陣には西国三十三所観音霊場の本尊が安置されていて、ここにお参りすることで西国札所を巡り終えたのと同じ功徳があるそうです。
境内に車がありますが、裏門からここまで車で上ってくることができ、背負うことなく本堂まで訪れる事が出来ます、もちろん有料。
鐘楼
1588年(天正16)に再建された瓦葺で袴腰が付けられた優美な佇まいをしています。
新仏殿
2006年に建立された鉄筋コンクリート造りの新しい建物、瓦葺の宝形造で葺露盤宝珠が乗る。
境内伽藍にあって新仏殿だけは妙に浮いている感が漂う。
2008年に落慶された木像立像仏では日本一とされる大千手十一面観世音菩薩像。
高さは12㍍あるという。
新仏殿からは和歌浦湾の遠望がきき、遥か先には和歌山城も見渡せます。
幸せ地蔵尊、賽銭皿に向け賽銭を投げ入れ、その場所により運勢を占うものだそうです。
これがなかなか入らない、この場合は小吉の様ですが、それ以上に入らなかったショックが大きい。
新仏殿と向かい合うように本殿が鎮座します。
右手に幸福観音その先に大師堂と続きます。
大師堂
瓦葺の宝形造りで堂内を窺うも、窓の樹脂が光を反射してよく見通せませんでした。
大樟龍王
市指定天然記念物のクスノキは樹齢は300年とも400年ともいわれ、社を収めた覆い屋はその幹に寄り添うように建てられています。
大きな樹には何かがいるものです。
多宝塔
1449年(文安6)の建立された瓦葺のもので、1441年(嘉吉元年)に倒壊した塔に代わって再建されたという。境内にあって鮮やかな朱の多宝塔は視線を引き付けます。
春子稲荷
改修中だった三社権現の左に鎮座する稲荷。
その昔信長、秀吉の軍勢が粉河寺などを焼き払い、紀三井寺にも迫りつつあった。
当時紀三井寺観音堂に仕えていた春子という娘が須弥壇から白狐の姿に化身し、軍勢の先鋒の羽柴秀長から焼き討ち禁制の書状をとりつけ、紀三井寺と寺町を戦火から救った伝承があるという。
それ以降、人々が厄除けとして祀ったのが春子稲荷の起こりだと云われます。
本殿全景。
本殿は1759年(宝歴9)に建立された瓦葺の入母屋造りで正面に唐破風と千鳥破風が施されています。
手水舎は瓦葺の宝形造り、手水舎から先に進むと視界が一気に開けふもとの街並みと和歌浦湾が一望できる。
本殿の唐破風と千鳥破風。
下は本殿正面から外陣、内陣方向の眺め。
秘仏特別公開期間でありながら、やはり禍の影響もあり人影は少ない。
本殿外陣の右側の賓頭廬尊者。
「びんずるさん」で知られる「なで仏」で、心や体に病や悩みを抱える方は、自分のその患部とびんずるさんの同じ場所を交互に撫でながら祈願することで治癒するという。
時にこうしてびんずるさんとお目にかかるけれど、こちらのびんずるさんは目を見開き眼光鋭い表情をしています。気軽に撫でさせていただけますが、江戸時代のもので滑らかな表面は多くの悩みを一手に引き受けてきた証です。
紀三井寺本尊は十一面観世音菩薩で秘仏とされ50年に一度しかお目にかかれません。
その他にも秘仏の千手観世音菩薩や賓頭廬尊者もその一つ。
今年はその秘仏が公開される年にあたり、自分もかみさんも間違っても次に見る機会はない。
こうして見る本殿は見た目に派手さはないけれど、木組みの緻密さ、天井に描かれた絵などは視線を引き付けるものがあります。
善壽院
本堂から左の麓に下り裏門に通じる道筋に鎮座します。
外観を取り忘れたため内陣のみの写真となります。
本殿の左の道を下り切ると裏門に至ります。
切妻屋根で瓦葺の裏門が趣があり、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。
現在は門の出口の石段の先が車道となり、手摺もある事から事実上通れません。
本殿のある境内へ車で登るにはこの車道を上っていく事になります。
この裏門を訪れる方は少ないようですが、時間があれば立ち寄ってみるのもいいかもしれない。
建立など詳細は分からないけれど、木鼻の彫飾りや透かし彫りは、もっと見てもらってもいいものだと思います。
上は裏門と車道を挟んで左で見かけた覆屋。
中には白い小さな狐が守護する稲荷社の他にも社が祀られている。
「ふるさとを はるばるここに 紀三井寺 花の都も 近くなるらん」
いつ見てもお寺の御朱印の文字は達筆だ。
2020/06/26
紀三井寺
山号 / 紀三井山
院号 / 護国院
寺号 / 金剛宝寺
創建 / 770年(宝亀元年)、西国三十三所第2番札所
本尊 / 十一面観世音菩薩
住所 / 和歌山県和歌山市紀三井寺1201
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