知多郡美浜町古布『津島神社』
かみさんの新知多四国八十八箇所霊場巡りの送迎でこちらを訪れ、地元の神社を徘徊。
知多郡美浜町北方『十二神社・山之神社・北方稲荷社』から県道279号線を利用し南に15分程走り、待ち合わせ場所の二十七番札所 天竜山誓海寺に向かう。その手前の知多半島道路沿いに「津島社」を見かけ、こちらも参拝することにした。
因みに待ち合わせ場所の誓海寺は知多半島道路をくぐればすぐだ。
右手が知多半島道路、一ノ鳥居は側道入口に立ち、左に社号標とその後方に袴付きの常夜灯。
参道には石の灯篭が続きます。
入口の灯篭は1920年(大正9)のもの。
知多半島道路の側道が参道、緩い上り坂の左が境内の様です。
境内全景。
左に手水舎、右の入母屋の建物はよくわからない。
正面にニノ鳥居と拝殿と伽藍。
龍は水が枯れてしまったようだ。
社頭から西は南知多道路沿いで、通過する車が良く見渡せる小高い丘の上に鎮座しています。
これは何だろうね、神楽殿なのかな。
その先に妙に広い空間がある、公園か?
後で寄ってみよう。
参道(側道)から左に進むとニノ鳥居。
その先が拝殿で本殿は見えないが左右に末社が祀られているようです。
鳥居左に由緒碑がある。
愛知県知多郡美浜町大字古布字九条一三番地ノ二十
祭神 大国主命、櫛稲田姫命
正殿 須佐之男命、足名椎命、手名椎命
由緒
創立は不詳なるも、大治2年(1127年)以前の創立という記録がある。
張州府志に天王祠、尾張志に牛頭天王社の記載あり、明治以前は牛頭天王社と称していましたが、王政維新(明治維新)の際に津島神社と社号を訂正、同17年現社名訂正が許可された。
元は河和町大字古布字北平井百番地に鎮座。
昭和十九年十二月二十八日河和海軍航空隊設置によりこの地に遷座。
神社は現在鎮座する場所から東方の小学校がある辺りから遷座されたようです。
ここに航空隊、つまりは飛行場があったとは知らなかった。
どんな規模だったか調べて見るも古い地図では地図として出てこなかった。
伊勢湾、知多湾に突き出た知多半島、その丘に作られた航空隊はさながら航空母艦の飛行甲板。
こうした施設は当然標的にされる、ある意味この神社は戦災から逃れる機会を得たのかもしれない。
この碑は昭和63年健之、津島神社修復とある事から、この年に遷座後初の修復を受けたのだろう。
大治2年(1127年)以前に先人達は牛頭天王社を祀る動機があったのだろう、何がそうさせたのか知りたいところ。
創建時の先人の思いは今も大切に引き継がれているようだ。
入母屋妻入りの拝殿、正面には狛犬もいる。
拝殿前の狛犬は1920年(大正9)。
遷座と共に来たんだね。
それでは参拝。
拝殿右の境内社、六社あり手前から御霞社(須佐之男神)、社宮司社(社宮司神)、山神社(大県神)。
正面の三社は右から金刀比羅社(大物主神)、大國主神、神明社(天照皇神)。
本殿は柱が・・・4本、間が三つある、なので三間流造、流造。
祭神は須佐之男命、大国主命、櫛稲田姫命、足名椎命、手足名椎命。
高欄に何かいるようだ。
それは陶器で作られた小さな狛犬。
やや姿勢が悪く背中が丸い、見方を変えれば前傾姿勢でいつでも飛び掛かれる態勢の精悍な顔つきをして本殿を守護しています。
拝殿左の境内社は七社。
左手前から護国社(語国神)、御鍬社(御嶽大神)、井口社(弥都波能売神)、愛宕社(火産霊神)
正面三社は左から稲荷社(稲倉魂神)、御鍬社(保食神)、山神社(大山祇神)
参拝を終えて拝殿から境内を眺める。
境内東側に妙な空間、白い標識が建っている。
こうして書いている今、遷宮地と書いてあったような気がするが思い出せない。
なんだったかなぁ・・・・・気持ち悪いなァ
気を取り直して、参拝を終え参道を下り待ち合わせの誓海寺に向かう。
反対側からやたら犬の吠える声が聞こえてくる、後で聞くと彼女はこの時点で既に誓海寺にいたそうだ。
待っている間ずっと吠えられていたらしい、この時の鳴き声がそれだったのね。
想定よりゴールは早かったようだ、すまん。
漸く一ノ鳥居に戻る、そろそろ隣の誓海寺に行くか、久し振りの霊場巡り、ペースは遅いだろうから到着するまで寺を見るか。(既に到着し犬に吠えられてるちゅうの)。
『津島神社』
創建 / (伝)1127年(大治2)以前
祭神 / 須佐之男命、大国主命、櫛稲田姫命、足名椎命、手足名椎命
境内社 / 御霞社、社宮司社、山神社、金刀比羅社、大國主神、神明社、護国社、御鍬社、井口社、愛宕社
住所 / 知多郡美浜町古布(コウ)九条13-20
『十二神社・山之神社・北方稲荷社』から車アクセス / 県道279号線経由10分程
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