『熊野本宮大社 大斎原』 (世界遺産「熊野古道を含む紀伊山地の霊場と参詣道」)

 名古屋から高速と国道を使い4時間程のドライブで総本宮「熊野本宮大社大斎原」に到着する。

道路事情は30年前、釣りで訪れていた頃と比較すると飛躍的に良くなった。

大斎原入口駐車場に車を停めて、ここから大斎原(おおゆのはら)を参拝する。
導きの神八咫烏、太陽の化身とされる神の使い、、三本の足は天・地・人を表すと云う。
天は神、地は自然、人は・・・・人、太陽の下で神と自然と人は血を分けた兄弟であるということを表現したもの。

写真は駐車場脇にある八咫烏のモニュメントで「熊野本宮サッカーヤタガラス必勝祈願碑」
八咫烏と日本サッカー協会は、勝利を導く守り神としてユニフォームにも描かれる様に繋がりがあり。
このモニュメントは地元の方により平成に入り建立されたもので、左には必勝祈願の絵馬掛けまで用意されている。この後方は音無川が流れ、その先の杜がこれから向かう大斎原(おおゆのはら)。 

この鳥居をくぐり、枯れ沢に架かる橋を渡ると大斎原(おおゆのはら)の杜です。

音無川に架かる石橋の上から上流の大鳥居の眺め。
この距離感でこの大きさ、間近で見る鳥居はさぞかし大きいのだろう。
音無川の河原には流れはなく、一面川石が露出していました、この時期は水源が枯れるのかな。
江戸時代まで中洲へ渡る橋はかけられる事がなく、参拝者はここで身を清め、歩いて川を渡り詣でるのがしきたりだったという。

音無川の石橋を渡り中州に立ち入ると、左手に「しばらくは 花の下なる 御輿かな 稀山」と彫られた碑がある。稀山と云う方、調べて見るがよく分からなかった。

大斎原(おおゆのはら)
いま渡ってきた音無川とここから少し下流の岩田川の二本の支流が熊野川に流れ込む、その合流点にできた中州を大斎原と呼び、神が舞い降りた場所。
この地に神が舞い降りて以降、ここに祀られてから2000年の長きにわたり、この中洲に鎮座する熊野本宮大社に詣でる熊野詣の聖地として、山深い辺境の地を目指した。
しかし、1889年(明治22)の大洪水でここに鎮座していた上、中、下社の各4社の内、上四社を除き被災。

後の1891年(明治24)、大斎原から約700㍍上流の熊野川右岸の高台に上四社を遷座し、大斎原には中4社、下4社と摂社の御神霊を二つの石の祠に祀り今の姿となる。
大斎原には苔むした石組が残り、嘗ての伽藍の名残を留めている。
石碑から右方向に向かうと大斎原の解説板がある。

先に書いたように大斎原には中4社と下4社、摂社の御神霊を祀る二つの石の祠が祀られ、広い境内に伽藍はない。
中央に二つの石の祠とここを守護する狛犬だけがポツンと祀られている、本宮に比較すると訪れる方も減り、静かな空間が広がる様は、嘗ての賑わいからかけ離れ、侘しさのようなものが漂うとともに自然の計り知れない破壊力が伝わってくる。

大斎原の杜は被災後伐採され、その後に植林されたものが多くを占めるらしいが、100年を経て杜は大きく育ち、春には桜が咲き誇る。

「一遍上人神勅名号碑」
一遍上人(智真)は、鎌倉中期から室町時代にかけて日本全土に広まった浄土系仏教、時宗の開祖で、それまで皇族や貴族など上流階級のものだった熊野信仰を庶民に広めたのが一遍上人だという。

熊野と一遍上人の所縁は、修行僧として布教に悩んでいた頃、智真が熊野本宮大社の証誠殿を訪れた際、山伏の姿をした熊野権現が夢枕に現れ「布教は阿弥陀仏によって導かれたもの」とお告げを受けたと云う。それを機に悟りを開いたといいます。
そうした事から時宗(じしゅう)が熊野を聖地とするようで、この碑は1971年(昭和46)に建立されたもの。

二つの石の祠。

石灯籠に文政3年と刻まれている、200年の年月を経たとは感じられない綺麗なものだ。

左の祠に中四社、下四社の御神霊を祀る。
中四社
第5殿 忍穂耳命
第6殿 瓊瓊杵尊
第7殿 彦穂々出命
第8殿 鸕鷀草葺不合命
中四社
第9殿 軻遇突智命(火の神)
第10殿 埴山姫命(土の神)
第11殿 弥都波能売命(水の神)
第12殿 稚産霊命

右の祠は境内にあった摂末社の御神霊を祀っています。
・八咫烏神社 ・音無天神社 ・高倉下神社 ・海神社 他

案内板に「仮に石祠に2殿を造営・・・・・」とあった、確かに大所帯ではあるけれど、ここ大斎原(古宮)はこのままでいい様な気がしてならない。

なかなかお洒落なマスクを着けてもらって。

被災前の本宮大社は、約11,000坪のこの境内に、楼門を構えて、上・中・下の十二社の社殿、多くの摂末社や神楽殿等が立ち並んでいた。現在の熊野本宮大社の8倍近い規模だったという。

大斎原東側の石積み、ここから左に進むと禊場?に続く。

境内東外れに被災前の社殿と被災時の痛々しい写真が掲示されている。
あれから技術は進歩し、上流には巨大なダム、沢には堰堤等も作られ、流れを失った音無川は枯れ沢となり、人は血を分けた自然を制御できる大きな錯覚をしている気がしてならない。

自然に挑み、作っては壊れ、復興と称し更に大きな物に作り替える、そこが人の持つ底力なのだろう。
上4社が遷座した様に、潔く引くことも必要な気がする。
血を分けた兄弟の闘いはどちらに軍配があがるものなのか。

さて、境内東から大鳥居へ向かいます。

大鳥居の前ある「紀伊山地の霊場と参詣道 熊野本宮大社 旧社地大斎原」の碑。
2004年、熊野古道を含む紀伊山地の霊場と参詣道として世界遺産に登録された記念でしょう。

手水鉢には「蘇」、玉には「魂」と彫られています、魂が蘇る。
まさに大斎原のあの空間はそんな気にさせる。
正面に見えているあの小高い山に熊野本宮大社が鎮座します。
車を一番手前の大斎原入口駐車場に駐車した事もあり、参拝順序が逆になりますが、近くて便利はきっと混むはずです、ここから本宮まで歩いて向かいます。

大斎原と云えば日本一の大鳥居で知られる。
境内入口に掲げられた「日本第一大鳥居建立の意義」の解説板。
鳥居の高さは34㍍、幅が42㍍もある巨大な鳥居。

羽を広げて飛ぶ八咫烏のモニュメント、見上げる鳥居はその巨大さゆえにフレームに収まらないけれど、鳥居中央の金色の八咫烏はいやが上にも視界に入ってくる。

田園地帯から大斎原とそそり立つ日本一の大鳥居。ここからでも八咫烏が見て取れる。
熊野本宮大社・熊野信仰の原点となる大斎原に相応しい大きな鳥居だ。

神がいて、自然があり、人が地を耕す、この光景が天・地・人なのかな、いい光景だ。
ただ正直なところ、鳥居はでかすぎる気がしてならない。

熊野本宮大社 大斎原(おおゆのはら)
創建 / 伝承 崇神天皇六十五年
大斎原 祭神 / 忍穂耳命、瓊瓊杵尊、彦穂々出命、鸕鷀草葺不合命、軻遇突智命、埴山姫命、弥都波能売命、稚産霊命
摂末社 / 八咫烏神社、音無天神社、高倉下神社、海神社、他
住所 / 和歌山県田辺市本宮町本宮1
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