木曽三川公園138タワーパーク付近で見つけた小社
2021/5/28巣籠に耐えかねかみさんと連れ立って国営木曽三川公園 フラワーパーク江南に花を見に江南方向に向かった。
帰り道にお囲い堤ロードを更に下って国営木曽三川公園138タワーパークまで足を延ばす事になりタワー通りの南派川の堤で小さな小社を見かけ車を停めて見た。
社の左には大きな幹のイチョウの樹が植えられていて、火の災いから社を守りたい、そんな意図が伝わってきます。
堤の斜面に合わせる様に石段が積まれ、角の取れた丸い石を積み上げ境内が作られています。
その周囲を玉垣が囲んでいますが社に比べ風化が進んでいます。
社号標はなく、社の扉はしっかり閉じられ外部から識別は出来なかった。
玉垣に何か彫られていないか調べて見るもそれらしいものは見つけられない。
5本の千木と内削ぎの千木が施された社、その正体は分からない。
南派川の堤から光明寺の街並みを見据えるように佇む小さな社と近代的なタワー。
地図からは創建年代が推測できないか見てみました。
上段左上は1891年頃ですが、そもそも道がない。
現在の道筋になり目印となるイチョウの樹と石段らしきものが写りだすのが昭和の中ほどから。
玉垣の風化具合が昭和の時期に合うのかな。
1562年(永禄5)清州城で信長と家康の間で結ばれた清州同盟。
その宴の席で信長と家康は酔い覚ましに馬に乗りこの地の光明寺城(現在は石標のみ)を訪れたという。
そこから対岸の岐阜城を眺め「美濃を制する者が天下を制するか」と呟いたといわれる。
地名の由来は古刹の天台宗光明寺がある事からきている。
光明寺城は廃城となり現存しないけれど、この堤から北を望むと岐阜城(稲葉山)は間近に望める。
この地が戦国武将と所縁のある地なのが分かる。
この不明社がいつ頃ここ祀られているのか定かではないけれど、こうして高みから眺める姿からはそんな武将たちの思いを想像させる。(写真は国営木曽三川公園 138タワーパークから岐阜城方向の眺め)
光明寺の不明社
創建・祭神 / 不明
所在地 / 一宮市光明寺東神明
国営木曽三川公園 フラワーパーク江南から車アクセス / 県道183号線 県道182号線 県道150号線(タワー通り) 所要時間15分程
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