兵庫県豊岡市出石町『呉服神社、國朝天女稲荷』

 但馬一ノ宮出石神社を後に、県道706号線を南下、県道2号経由で出石城西隣の出石市営西の丸駐車場までは10分程で到着。


兵庫県北東部に位置し、周囲を山々に囲まれた出石盆地で、円山川の支流出石川が町の中央を流れ、少し下流で豊岡盆地を流れる円山川と合流しています。
現在の豊岡市の中心は豊岡盆地ですが、明治以前の但馬の中心は出石盆地だった。
出石神社が鎮座する北には此隅山城、後の1604年(慶長9)に当時の藩主小出吉英により有子山(ありこやま)北の山裾に出石城が築かれ城下町として整備されたのが現在の出石町、古くから但馬の政治、経済の中心地だった。
町並みには視界を遮る高い建物はなく、落ち着いた佇まいの町並みが続く。
それだけに興味深い見所や名物皿蕎麦などあり、ゆっくりと回りたいがそうもいかない。
見所多い出石町のほんの一部だけですが掲載しておきます。


上は出石城下の解説板、今回歩いたルートは点線部分。
「出石町は但馬開発の祖神とされる新羅の王子天日槍が垂仁天皇3年(BC27年)に渡来、但馬を拓いたと伝えられ、町名の出石は天日槍の宝物『出石小刀』からきているとされる。
「古事記」「日本書紀」にも記される程の歴史のある町。
但馬文化発祥の地として、山名宗全一族の本拠地として二百年間の繁栄を誇り、 近世は小出、松平、仙石氏ら五万八千石の城下町として繁華を極めました。
二千年の歴史に薫る文化遺産の数かず、井然とした街路、美しい山河の佇まいなど、 出石が但馬の小京都と呼ばれる由縁」

出石町のシンボル辰鼓楼(しんころう)、その姿はマンホールにも誇らしく描かれている。


出石町のシンボル「辰鼓楼」
出石城登橋門の大手前通り沿いに建ち、出石町の住民のシンボル的な建物。
1871年(明治4)旧三の丸大手門脇の櫓台に1881年(明治14)大時計が寄贈され、以降は時計台として親しまれている。現在の時計が3代目で今も時を刻み続けている。

八木通りを東から西方向に眺める。
出石川までの東西約1㌔程の道筋で、道沿いに名物の皿蕎麦のお店が多く点在する。
写真右手に鳥居が見えます。

社頭全景。
明神鳥居と瓦葺の鞘堂があり、右に小さな社と左に祠がある。

社頭正面。
鳥居の額には「呉服(くれはとり)神社、八坂神社」とある。
左手の建物は「やさかぎおん会館」、地本の人には「くれはとり」や「やさか」神社より「祇園さん」の方が通じるようです。

社頭の解説板、祇園社由緒。
「祇園さんは八坂神社の旧称。
祭神は建速須佐之男命である。
朝野の信仰深く、祇園祭で著名な京都の祇園社より勧請した。
相殿に呉服(くれはとり)神社を奉斎し、祭神の袴幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)は織物の神。
1876年(明治9)の大火災で文献が焼失し勧請年月日は不詳。
火災後社殿一坪を建築し、1917年(大正6)7月現在の本殿に改築。
また1931年(昭和6)6月石鳥居並びに狛犬を建築して現在に至る」
とある。

出石町は幾度となく大火を経験しているようで、出石町の年表に大火は二回程おきている。
一つは1744年(延享元年)の出石大火と1876年(明治9)の出石大火。
明治の大火の発端はイワシを焼いた際の火の不始末が原因らしく、強風に煽られ延焼し、出石川から東の谷山、伊木、東条、入佐、魚屋、本町、宵田、鉄砲、川原、柳、田結庄の各町と水上村の一部を焼き尽くす大火となったという、焼失面積は全体の80%だという。
神社が鎮座するこのあたりは出石町魚屋、直球で分かりやすい町名ですが、この周辺も焼き尽くされています。多くの人命と1千戸近くを全焼し、寺社も被災し住民にとっては絶望的な光景だっただろう。

こうして見る街並みはその後復興されたもの、町で見かける解説にこの大火の事は必ず触れられている。
八木の道筋に軒を連ねる光景は大火以前から変わらない運命共同体として成り立っているようだ。
そうした事もあり出石町には11の組があり、毎年秋には豊作を祈願し喧嘩だんじりが行われ、魚屋一帯の八木組のだんじりはこの境内で組み上げられ出陣していくそうだ。

鳥居右側の赤い社、社名も詳細も分からない。
幾度となく大火を経験している出石町、赤い社と云えば…何だろうが、お札も見ていないので不明社です。

鞘堂前の狛犬。
解説にある様に石鳥居や狛犬は1931年に寄進されたもの。
小さな狛犬ですが、風貌はそれより古くからここを守護している貫禄が漂う。

境内から見る「祇園さん」の眺め。
切妻瓦葺で平入の鞘堂は前方の軒が長く張り出し向拝の役目もしているようです。
創建等は不明。
祭神は建速須佐之男命。
相殿神は袴幡千々姫命。
再建は1917年(大正6)
但馬ちりめんや古代製鉄技術「たたら製鉄」の郷、海の向こうの新羅とのつながりは深そうです。

境内左の祠。
祠の前に1937年(昭和12)の石標が立っている。

中には色が塗られた4体の石像が安置されています。
何れも長い年月を経ているようで彫られた姿は見にくい、彩色されている事で鮮明になっている。
「八木町上南側 延享五辰十一月」とある、延享の大火に見舞われた4年後のものです。
この年なにがあったのか定かではないけれど、思うところあって彫られたもの。
観光客がそぞろ歩く観光の通り八木通り、そんな道筋もここに住む者には日常の路。
そうした路のそこかしこに、小さな神社や祠が大切に祀られている、そんな光景を目にすると形容の出来ない温かいものが伝わってくるいい町だ。

「呉服(くれはとり)神社、八坂神社」(祇園さん)
創建 / 不明
再建 / 1917年(大正6)
祭神 / 建速須佐之男命
相殿神 / 袴幡千々姫命
例祭 / 7月9日


祇園さんを後に八木通りを少し東に進み、ひと区画東の角へ、正面にレトロな出石明治館が見える。
その西向いの角に赤い鳥居と赤い社が鎮座しています。

民家の敷地の一部を社地として与えられているようだ。
鳥居のすぐ先にコンクリートの台座上に赤い板宮造りの本殿が祀られている。

狐の姿は微塵もないが稲荷社か?
台座に由緒が掲げられている。

國朝天女稲荷(くにともてんにょおいなり)
「明治9年、出石に大火がありました。
約千軒が焼失しています。
それは南風の強い三月二十六日のこと(出石町史より)
現在この場所にお祭りされている國朝天女稲荷様、大火以前からこの近くに鎮座されていたが、大火以降に移転され、火の神様として崇敬されている。
この御稲荷様の御使いは女狐と云われています。
祭礼は毎年十一月一五日」

明治の出石大火はここにも語り継がれていました。
この稲荷もその影響を受け、この場所に移らざるを得ない状況に追い込まれたようです。
稲荷と言えば商売繁盛や五穀豊穣の神の印象が強い、大火を幾度となく経験する出石の町では火の神様。
出石町を歩いているとこうした稲荷を見かけるが、不思議に秋葉社に出逢うことが無かった。
祇園さんの北側でも見かけたが、何れも狐の姿はなく國朝天女稲荷のような形態で祀られていました。
女狐にお逢いしたかった。
城下街の風情漂う出石町、その町を守護するのがこの國朝天女稲荷。
二度と大火は起こさない。
但馬の中心が出石から豊岡に移っていた背景に、焼け野原となり絶望感しかない町から離れるきっかけにもなった。

現在の町はその絶望感の中から懸命に復興させた住民の不屈の思いが形になった町だ。
辰鼓楼の付近で出会った地元ボランティアの熱弁はそうした郷土愛からくるものだろう。
そこまで熱く語れる町、実に羨ましいものがある。

國朝天女稲荷(くにともてんにょおいなり)
創建 / 不明
再建 / 不明
祭神 / 不明
例祭 / 11月15日
所在地 / ​兵庫県豊岡市出石町魚屋53

2021/10/26

出石神社から出石市営西の丸駐車場 / 兵庫県豊岡市 出石町小人129-19

駐車場から祇園さん➡國朝天女稲荷 / ​徒歩10分程​


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