『薬師寺』奈良県奈良市西ノ京町

法相宗大本山 薬師寺
奈良県奈良市西ノ京町に鎮座する法相宗大本山 薬師寺。
若い頃、斑鳩の里や薬師寺周辺を徘徊し四季折々の寺社が佇む風景写真を撮っていた時期がある。
当時は今のように撮った結果がその場でわからなかった時代、現像の結果次第で再挑戦、精度の悪かった天気予報を信じ雪景色や夕景を期待し下道をひた走る、今思えば随分とアホな事をしていた。
あれから何十年ぶりだろう、ましてや薬師寺の伽藍を間近で見るのは初めてかも知れない。
名古屋から電車で薬師寺の玄関先西ノ京駅までは約2.5時間程の移動時間、車で訪れる事を思えばとても快適だ。
西ノ京駅から薬師寺興楽門までは徒歩2~3分。

薬師寺の創建は天武天皇により天武天皇9年(680)に開基、本尊の薬師三尊像は持統天皇により持統天皇11年(697)に開眼され、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市)に造営された。
後の平城京遷都(710)に伴い遷都後の養老2年(718)にここ西ノ京に移転され約1300年の歴史を持つ。
平成10年(1998)、古都奈良の文化財の一部としてユネスコ世界遺産に登録され、誰しも一度は耳にしたことはあると思います。

興楽門
右に法相宗大本山薬師寺の寺号標。

「世界遺産古都奈良の文化財薬師寺」の石標と山門額。
門前に「国宝東塔 初層特別開扉」の看板。
2009年から2020年まで解体大修理の手が入り、塔先端の水煙も新しいものに取り換えられた。
解体された部材は13000点にもおよぶと云われ、それらを修理し再び組み上げ、2020年に落慶法要予定でしたが、昨年まで延期されていた。ちなみに東塔は110年振りの大修理だったそうです。
今年の1月16日まで綺麗になった塔の姿と初層の内部が公開されていた。
かみさんはこうしたものに興味がないと思っていたが今回彼女からのお誘いで訪れた。

薬師寺の伽藍は1300年の歴史の中で天災や火災で失い都度再興されましたが、平安京へ遷都以降衰退が進み江戸時代には往時の姿は失われ、薬師寺の復興は長年の悲願でもあった。
昭和43年(1968)、法相宗の高田好胤(たかだこういん)館長をはじめとした写経勧進活動により昭和から令和にかけて計画的に再建も進み徐々に往古の姿を取り戻し現在の姿となった。
創建当時の姿を残す建造物は東塔が唯一のもので、歴史を感じさせる古びた建物は見当たらない。

興楽門をくぐり右側の不動堂。
薬師寺「白鳳伽藍」の北西の隅に鎮座し、堂前の大きな不動明王像が安置されている。
この前の結界が張られた空間は毎年10月8日、天武天皇を偲ぶ「天武忌」の当日に柴燈大護摩を行う空間。
朱に彩られた艶やかな伽藍の中にあって、不動堂と東院堂の落ち着いた姿は目立つ存在かも知れない。

食堂
文字通りで僧侶の食事の場であり宗教儀礼を行った建物で左右に僧房が連なる。
天禄4年(973)に消失し寛弘5年(1005)に再建、その後いつまで存続したか不明。
現在の姿は2017年に再建されたもの。ここから奥に見える東僧坊へ。

御朱印は東僧坊で頂きますが、中には金堂に安置されている国宝「薬師三尊像」の中央の本尊薬師如来坐像(薬師瑠璃光如来)の台座のレプリカが展示されています。

解説は以下
「本尊薬師如来坐像は697年に開眼、この台座も同時期のもの。
台座には世界各国の文様が集められ、一番上の框にギリシャの葡萄唐草文様、下にペルシャの蓮華文様。
腰部各面の中央にインド伝承とされる力神裸像、下框(かまち)に四方四神(東=青龍、西=白虎、南=朱雀、北=玄武)の浮彫が施されている。当時の国際性と東西文化の交流を知る上で貴重。
台座は本尊と同様の金銅製で上框、腰部、下框の3つに分け鋳造されている。
当初からこの大きさに鋳造されたようですが、腰部の文様の一部と力神を支える塔の一部に不自然な終わり方をしており鋳造後切断されたようだ。
台座の中から金銅飾金具・帯状唐草文金具、金銅製懸仏・魚々子地花唐草文銅板の他に飾金具、ガラス、貨幣など発見され、飾金具からは火の影響を受けた痕跡があり、最初から入れられたものか、幾度の火災を受け移されたものか謎は多い」

東僧坊北側の鐘楼。
吊られている梵鐘は1976年金堂再建時に造られた梵鐘。
梵鐘はもうひとつあり、室町時代にできた罅が残る「西ノ京破れ鐘」と呼ばれる梵鐘がある。
竜頭を含めると人の背丈を越える高さがある大きな梵鐘は重要文化財に指定され、東塔落慶に合わせ一時的に付け替えられていた。
薬師寺縁起に平安時代中期の長保5年(1003)、現在の大和郡山市植槻町にあったとされる建法寺(植槻寺)から薬師寺に移転されたという。


手前から東僧坊、食堂、西僧坊の眺め、後方は金堂。

東僧坊と奥に東塔。
広い境内に修学旅行?生の一団が金堂方向に向かっていった。


東塔

金堂
ここは廻廊の外側の東院堂に向かう事にする。

東塔の東に建つ東院堂。
廻廊に囲まれた金堂や塔に人が流れていくが、ここ当院堂は廻廊の外になり、人目を引く朱塗りも施されていないからか意外に足を向ける方は少ないようだ。
縁起の内容は
「養老年間吉備内親王が元明天皇のため発願建立した。
奈良時代は現在地東側の観音池にあり南向きに建てられていた。
弘安8年(1285)に再建、後の享保18年(1733)に西向きに替えられた国宝の建造物。
奈良時代の諸堂は土間が通例、板床を敷き東院禅堂と呼ばれた事から鎌倉時代には禅の影響を受けていた。
東院堂本尊の国宝聖観世音菩薩は白鳳時代(645~710)のものとされる。
目に見えないもの、耳に聞こえない音を観し、人々の苦しみ救う仏様として古来より崇敬されている。
インドのグプタ王朝(320~550)の影響を受け、姿は端麗で若さの中に気品が漂い「祈りが昇華していく崇高な御姿」で言葉とおりの美しさをもつ。
四天王像は正応2年(1289)に京佛師の隆賢と定秀により制作、彩色は永仁4年(1296)に興福寺の絵師観舜と有厳により施された。
目に玉眼をはめ、顔の色は中国古来の四方四神の思想に基づき、東=青龍=持国天、南=朱雀=増長天、西=白龍=廣目天、北=玄武=多聞天に色分けされている。」

開け放たれた堂内は参道からもよく見通せる、堂内に入れば間近で眺めることが出来る。


東院堂から東塔と西塔の眺め。
相輪の上に今回新調された水煙が飾られている。
薬師寺1300年の歴史で初めて新調されたという。
幾度か火災に見舞われた薬師寺伽藍の中で唯一創建当時の姿を今も残す。
近くで見る塔の姿は壮観なものがあるが、少し離れて眺める塔の姿が個人的に一番好きな光景だ。

東院堂右奥に鎮座する龍王社。
嘗て金色の「龍神像」を祀っていたが、現在は奈良国立博物館の所蔵。
室町時代の秘仏大津皇子坐像がある。
龍神信仰に留まらず、大津皇子の霊を鎮める大津龍王宮としても崇められている。
創建 / 不明
祭神 / 大津皇子
例祭 / 龍王社祭(7月26日)


龍王社から見る東塔と西塔。
似ているようで高さや彩色の有無など外観に違いがある。

中門
享禄元年(1582)の兵火で焼失したが昭和59年(1984)に西塔に引き続き復興されたもの。

両側の二天王像は平成3年(1991)に復元されたもの。


南門から境内に入ると中門左に手水舎と六根清浄と刻まれた手水鉢がある。

手水舎から更に左の複数の社が祀られています。


左が平木大明神、右が弁財天社。

重要文化財の若宮社。
祭神 / 大津皇子
建立 / 不明

金堂
中門をくぐり白鳳伽藍の中枢に進む、目の前の金堂は龍宮造りと呼ばれるもので、亨禄元年(1528)に消失、慶長5年(1600)仮本堂が建てられ、昭和46年(1971)から5年をかけて復元再建されたもの。
二重屋根の各層の下に裳階(もこし)と呼ばれる装飾目的の庇が付き、龍宮城をイメージさせる豪華な外観は龍宮造りと云われる由縁なのかも知れない。


東塔(国宝)
創建当時からの建造物で解体修理を終え、シックな美しい姿を見せている。
一見すると六重の塔?と思いますが、三重塔で金堂同様に三層屋根の下に裳階が入る。
一辺が10.51㍍、高さ34.13㍍三重塔としては稀な大きさと高さを誇る。
水煙(相輪上端付近の大きな飾)には衣を翻し飛翔する二十四の天人の透かし彫りが施されている。
檫管(相輪の芯)には薬師寺創建の縁起が刻文されている。
今回の解体修理は近年の調査で心柱脚部の傷みが顕著なため文化庁、奈良県の指導のもと史上初の全面解体修理に至ったようです。
解体に伴い東塔の全貌は記録、技術ともに次代に引き継がれていく。
この作業中先人達からのタイムカプセルが見つかったという。
心柱最丁部から仏舎利(釈迦の遺骨)が見つかり、新たな舎利容器を誂えて元の場所に戻されたという。
初層の扉は開け放たれ、基壇から心柱や天井画など内部を間近に見ることが出来た。


西塔
二つの塔が相似して配置された伽藍は日本最初の様式だと云う。
創建当初の塔は享禄元年(1528)に消失、以後西ノ京の風景から西塔の姿は長らく失われていた。
昭和56年(1981)東塔に基づいて伝統工法で再建され、西ノ京に二つの塔の姿が蘇った。
塔の心礎には平山郁夫画伯の請来された佛舎利が祀られた、内陣に釈迦の生涯の内、後半生の成道・転法輪・涅槃・分舎利を表した塑像群が祀られていたが塔と共に焼失、平成27年(2015)に彫刻家中村晋也氏により現代に蘇った。
塔高は36㍍の総檜造りで丹青が施され、東塔にない華やかな姿を見せている。



金堂
創建当初の金堂も享禄元年(1528)に消失、諸仏は火災に耐え薄黒くなった容姿はかえって輝きを増したという。
慶長5年(1600)に本尊の薬師三尊を夜露から凌ぐ仮金堂が建立され、昭和51年(1976)再建されたもの。
古代工法に則って再建された白鳳様式の二重二閣で、内陣に佛像、写経を安置する鉄筋コンクリート造り、外陣は樹齢数千年を経た台湾産の桧が用いられた木造建築。
瓦などは白鳳時代の出土瓦を再現し鴟尾や風鐸、装飾金具など記録に基づき作られ、天井絵は東塔のそれに倣って復元された。
全国から納経された写経は本尊頭上の納経庫に納められ後世に残されている。

薬師三尊
中央の薬師如来と脇侍の月光菩薩(左)、日光菩薩(右)で薬師三尊という。
中央の薬師如来の台座が東僧坊で見たものです。
良くぞ焼け残ったものだ、光背などは当時のものだろうか。


大講堂
学僧が仏教を学ぶ場所で往古の伽藍では金堂よりも大きな規模で大講堂と呼ばれた。
亨禄元年(1528)阿弥陀三尊繍仏とともに焼失し、嘉永5年(1852)に再建されたが規模は小さかったようです。
現在の建物は平成15年(2003年)に伝統工法で創建当時の規模で復元再建されたもの。
裳階付きの屋根を持つ様式は薬師寺独自のもので、幅41㍍、奥行20㍍と伽藍の中では最大の建造物。
奈良時代の物とされる本尊の弥勒三尊像(重要文化財)と後堂の仏足石(国宝、奈良時代)は安置し、佛足石は釈尊の足跡を石に刻んだもので、インド鹿野苑より唐長安を経て遣唐使により平城京にもたらされ、万葉仮名による佛足跡歌碑は国宝。
平成15年(2003)に中村晋也氏作の釈迦十大弟子が佛足石両側に安置されている。

食堂
天禄4年(973)に消失、寛弘2年(1005)に再建されたがいつまで存続していたかは分からない。
平成29年(2017)に再建され、田淵俊夫氏の阿弥陀三尊浄土図と仏教伝来の道と薬師寺の14場面が納められている。
ここから西僧坊へ向かうと東塔の最上部に飾られていた水煙や縁起の刻まれた檫管、塔の部材などが公開されている。

創建以来初めて付け替えられた水煙、普段は見上げるしかないが間近に見る機会は二度とない。
水煙は銅製透かし彫りの板が十字に四枚組まれ、その一枚〃の各面に衣を翻し飛翔する二十四の天人の透かし彫りが施されている。


水煙に施された天人の透かし彫り。
全高は1.8㍍と人の背丈ほどあり、一枚の水煙の重量は100㎏とあり相輪全体でいかほどの重量になるものか、クレーンなどない時代、人の智恵と作ると云う情熱の集大成が相輪なんだろう。

薬師寺創建の縁起が刻まれた檫管。

相輪と檫管の解説。
11のセクションで構成される相輪、9個の檫管が一つに継がれてあの高さを形作っている。
全高は宝珠までが10.3㍍とあった。

これで薬師寺白鳳伽藍を見て廻りました、次は興楽門の北側にある玄奘三蔵院伽藍に向かいます。

興楽門から右に進むと直ぐ左に写真の山門がある。

山門をくぐった広い境内、正面に見えるのが玄奘三蔵院伽藍。
右が薬師寺本坊とお写経道場。

境内の薬師寺解説。
玄奘三蔵院伽藍の特別拝観は平山郁夫氏の大唐西城壁画が公開されていた。


玄奘三蔵院山門全景。
玄奘三蔵(602~664)は中国唐代の僧でインド仏教の神髄を求め17年間の旅に出て経典や仏像、佛舎利を携えて帰国したという。般若心経は玄奘三蔵が翻訳し飛鳥時代に日本に伝来した。
山門の先に見える玄奘塔の正面に掲げられた「不東」の額は、故・高田好胤和上の染筆で玄奘三蔵の経典を手に入れるまでは東(中国)には帰らない決意を表す言葉だという。
法相宗の大本山はここ薬師寺と興福寺、玄奘三蔵は法相宗の鼻祖(始祖)として仰がれ遺徳顕彰のために平成3年(1991)に建立されたもの。

中央の玄奘塔には大川呈一氏の手による玄奘三蔵訳経像と共に、玄奘三蔵の頂骨が祀られている。
伽藍北側の大唐西城壁画殿は平成12年(2000)、平山郁夫画伯の手による7場面13枚、全長49㍍mの大壁画「大唐西城壁画」が納められている。取材、制作含め約20年をかけた大作だ。

これで南門以外の白鳳伽藍を間近に見た、更に南の休ヶ岡八幡神社等見所は多いが次に向かうことにする。

薬師寺
1300年の歴史を誇り、遷都や幾多の禍により伽藍を失い、衰退した伽藍復興に尽力された故・高田好胤和上や多くの方の思いが結実し、一糸纏わぬ白鳳伽藍が西ノ京の風景に姿を見せている。
一面に蓮華の咲くころまた訪れてみようか。
2021/12/21


法相宗大本山 薬師寺
所在地 / 奈良県奈良市西ノ京町457
公共交通機関 / 近鉄名古屋駅➡大和八木乗り換え➡西ノ京駅降車➡徒歩2~3分 ​​所要時間約2時間半

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