守山区川村町「天王社」
永森の天王社から北に15分程歩くと川嶋神社が鎮座する守山区川村町に辿り着く。
明治の頃は東春日井郡川村と呼ばれ、町村合併を繰り返し、1978年(昭和53)に当時の守山区大字川、大字大森垣外の一部が纏まり現在の川村町になった。
目の前に庄内川の堤が迫り「川村」や「大字川」の地名はまさに言い得て妙だ。
この町にも『天王社』は祀られている。
ゆとりーとライン川宮駅と川村駅の中間に位置する川村天王社、永森の天王社からだと歩いて進んだ方がいい。
田んぼの姿は消えてしまったが、道沿いは梅の花や上手に育てた野菜畑など、上手く育てられない者から見ると学ぶものは多い。
田んぼの姿は消えてしまったが、道沿いは梅の花や上手に育てた野菜畑など、上手く育てられない者から見ると学ぶものは多い。
上は川村町近隣の明治時代(左)と現在(右)の地図で、今回訪れた川村町天王社を赤塗で示してあります。
この一帯は川が間近に迫る土地柄、川は時に暴れるが反面豊かな土壌を作ってくれる。
その土壌を人は汗を流し耕作地にする、そして形になったものを川は容赦なく一瞬でリセットする。
自然と人が鬩ぎあって見事な野菜が育つ。
粘土質の山土で作られた我家の畑、耕す努力もしなければ生きものも伸びやかに育たない。
土の問題ではなく、どれだけ汗を流したかの差だろう。
907年(延長7)「延喜式」に山田郡19座の一つに記された歴史を誇る神社。
地名から社名は川村神社もしくは川神社じゃないの?
どうも往古から当地に鎮座していた訳ではないようで、元はここから少し東の川嶋之里、白沢口辺りに鎮座したと云われ、その後何度か遷座し現在地に鎮座したようで、元の名が残っているのかもしれない。
何れにせよ庄内川左岸のこの一帯を彷徨ったようだ。
地名から社名は川村神社もしくは川神社じゃないの?
どうも往古から当地に鎮座していた訳ではないようで、元はここから少し東の川嶋之里、白沢口辺りに鎮座したと云われ、その後何度か遷座し現在地に鎮座したようで、元の名が残っているのかもしれない。
何れにせよ庄内川左岸のこの一帯を彷徨ったようだ。
本題の川村の天王社。
川嶋神社の東参道の対面に鎮座し、過去に川嶋神社は訪れているが見落としていたようです。
三叉路の角地に鎮座する天王社全景。
覆屋の下に見慣れた赤い社と覆屋に繋がるように瓦葺で妻入りの四方吹き抜け拝殿?舞殿?が建っている。
この様式も守山天王社のstandardな形の一つかもしれない。
東側から眺める川村天王社全景、正面が川嶋神社。
拝殿から本殿の全景。
北側と東側に民家は建っているが角地のため解放感のある社地。
社地は綺麗に維持され、地域の方々の手が行き届きている。
北側と東側に民家は建っているが角地のため解放感のある社地。
社地は綺麗に維持され、地域の方々の手が行き届きている。
創建はいつ頃かと云うと困ったもんだ、分からない。
明治の地図、現在の地図共に天王社の印も記されていない。
古くから集落があり、航空写真が創建に結びつくとは考えないが、昭和20年頃(左)の航空写真で天王社をみると明確に識別ができない、識別がでるのは昭和39年(右)になって姿が見えてくる。
そこまで新しいとは思えないが一つの記録の結果です。
分からない創建よりニーズがあってここに祀られた社の現在の方が重要かと思う。
そうした目線から見てもここの天王社は今も血が通っている。
それがこの姿に現れていると思います。
赤く塗装された社は、埃を被り色合いがくすんでいる訳でもない。
ある意味、作物を育む土と同じで人の手が行き届いている表れだ。
この社も扉が開けっぱなしだ、誰か興味本位で開けそのままなのか?
「開けたら閉めなさい」子供にはよく言ったものだが。
いつ頃祀られたかという疑問より、むしろいつ開けられたのか、そちらの方が気になる。
川村 天王社
創建 / 不明
祭神 / 建速須佐之男命
所在地 / 名古屋市守山区川村町290
永森天王社から川村天王社徒歩ルート / 北に15分程
関連記事 / 守山区永森町 天王社
コメント
コメントを投稿