八幡神社・天満宮

 吉田川に架かる八幡大橋。

そこは国道472号線、通称せせらぎ街道です。

橋を越えすぐ左に曲がり吉田川右岸沿いに進むと八幡神社・天満宮が鎮座します。
清流吉田川では終盤を迎え鮎釣りに興じる釣り人も見られる。

清流の町を象徴するマンホールの蓋、これはアマゴをデザインしているのだろう。
アマゴやアユにとどまらず、イワナやオオサンショウウオなど、多くの生き物を育む豊かな渓流です。

郡上八幡の町名の由来となった神社がこの八幡神社。
訪れたのは9月も終わりの時期、買い物帰りの昼頃ですが参拝者は見受けられませんでした。

吉田川を望む道路際に境内があります。
この後方は小高い山となり、その頂には郡上八幡城が聳えています。

八幡社鳥居から境内全景。
左に手水舎と小野天満宮の社標、右に八幡神社社号標があります。

小野天満宮縁起

神体は約1mの白石に黒い油石があり、その油石は菅原道真の姿をしているという。
郡上藩領であった越前国小山荘の真名川(九頭竜川水系)で今から250年ほど前に発見され、時の八幡城主の金森頼錦により祀られたという。
当然ながら学問の神、当地のみならず、近県からも祈願に訪れるという。

鳥居から拝殿の眺め。
切妻平入の拝殿は左が菅原道真公を祭神とする小野天満宮、右が誉田別命を祭神とする八幡神社。

左の小野天満宮には臥せ牛と左が古筆塚。
右の八幡神社には狛犬が守護しています。

手水舎と左の小野天満宮の社標には梅の紋が彫られ由緒が刻まれています。
右手には古い手水鉢が置かれています。

八幡神社・天満宮由緒
八幡神社は現在の「八幡」という地名の起源となった神社。
鎌倉時代初期、順徳天皇の第二皇子御誕生の正月3日初夢に「これより東北に鷲の籠りあり、人畜に危害を及ぼす霊夢である」というので鷲を退治するようにとの勅命が武蔵権守藤原頼保へ発せられた。
一行が美濃国厚見群の長柄川(現在の長良川)にさしかかったとき、上流から流れ着いたとと思われる鷲の石打羽を川岸で発見した。
拾い上げて見ると羽の模様が「八幡」という文字に見えた。
権守はこれを携え更に東北へ進み、当小野村の民家に止宿した。
去る時にその羽を付近の岩間にさし、村人たちに神霊として祀るよう伝えたのが始まりという。
以後八幡宮として一祠を建てその羽を御神体とした。
しかし当時の八幡宮は現在の八幡城天守付近にあり、今でも跡地は「八幡屋敷」と呼ばれ大切にされ、標識も建てられている。
永禄二年(1559)ときの城主遠藤盛数公が築城に際し社殿を現在の山麗に移したとされている。
当神社は歴代城主の祈願所として崇敬され、明治初期まで社殿の建築や修繕、祭祀の費用は城主が負担していた。
更に学問の神様として崇められる天満宮が合祀されている。』

長良川の上流にスキーで知られる鷲ヶ岳があります、「危害を及ぼす鷲」はここが住処でその羽が流されてきたということでしょう。
八幡神社1220年(承久2)に八幡大神を勧請し創建されたとも伝えられます。
耳馴染みのある「郡上のなー 八幡出ていくときは 雨も降らぬに袖絞る」の川崎の歌詞は違っていた訳です。

苔むした古い手水鉢には享保(1716~1736)の元号が見られる。

天満宮といえば撫で牛。
自分の体の患っている部分と同じ個所を撫でると徳を授かる、子供が撫でれば知恵を授かるとされる。
なのでどこに行っても彼らは全身ピカピカ。

八幡神社狛犬。
艶々、ピカピカの牛と比較し、狛犬は黒ずんでザラザラ、狛犬はこれで良いんです(偏見ダナ)。

八幡大神扁額

本殿域は足場が組まれ補修の手が入り、本殿域の全容は捉えきれませんでした。
流造?の本殿が覆屋の下に祀られています。

吉田川が望めるこの境内、8月25日には境内の右手の広いスペースが郡上おどりの場ともなるようです。
このスペースは参拝者駐車場ではありません、車で訪れると最寄りの駐車場を利用する事になります。

社頭から見る吉田川下流方向の眺め。
冒頭の青く広い川面はこの辺りから細くまとまり白く波立ち長良川へと続きます。
独身時代、愛犬と足しげく山に籠っていた頃の静かな町の印象とは少し変わって来たけれど、いい山といい川がある落ち着いた町だ。
2020/09/28

八幡神社・天満宮
創建 / 不明
祭神 / 八幡神社・誉田別命、小野天満宮・菅原道真
住所 / ​岐阜県郡上市八幡町小野1
公共交通機関アクセス / 長良川鉄道郡上八幡駅より約2km
関連記事 / ​一泊二日GoTo使って飛騨の國一之宮と下呂温泉 ​

コメント

人気の投稿