熊野三山「補陀洛(ふだらく)山寺と熊野三所大神社」
補陀洛(ふだらく)山寺と熊野三所大神社
「神蔵神社」から補陀洛(ふだらく)山寺へは、国道42号線(那智勝浦新宮線)を南下します。
那智勝浦ICで降りて県道46号線、43号線を経て補陀洛山寺に至ります、移動時間は20分程。
駐車場は県道43号線沿いの左側にあります。
正面の交差点を左右に横切るのは国道42号線。
補陀洛山寺
県道43号線沿いに寺務所と右手に本堂と熊野三所大神社が鎮座します。
訪れたのが2月21日、この時期には県道沿いの河津桜が見頃、この桜の樹のところから駐車場に入れます。駐車場からは補陀洛(ふだらく)山寺と隣接する熊野三所大神社へ参拝が可能です。
駐車場から高床で大きな向拝が付く宝形造の本堂まではすぐ目の前。
補陀洛山寺は仁徳天皇の治世にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹。1808年(文化5)の台風により諸堂塔が被災、その後、仮本堂を経て1990年(平成2)に室町時代の高床式四方流宝型の様式で再建されたのが現在の姿。
この寺は平安時代から江戸時代にかけ、小船で観音浄土である補陀洛山を目指した補陀洛渡海で知られ、境内にはその際に使われた小舟「渡海船」が復元・展示されています。
本堂左側の建屋に朱の鳥居が付けられた小さな小舟「渡海船」が見えます。
こんな小さな小舟で遥か南方海上にあるとされた補陀洛浄土を目指す。
捨身行、それは自らの死を覚悟して旅立つ究極の修行のことで、9世紀から18世紀までの間にそうした補陀洛浄土を目指す修業が各地で行われたそうです。
ここ補陀洛山寺だけでも20数回も帰らぬ旅へと船出を試みたとされる。
「那智山宮曼荼羅」に描かれた「渡海船」を基に復元されたこの船は全長は6㍍程、入母屋造の帆船で四方に発心門、修行門、菩提門、涅槃門の殯の鳥居がある。
この小さな空間に30日分の水と食料を積み乗り込む、船室は外部から閉じられるため外に出て自ら漕ぐことすら出来ない、沖まで曳航されそこで引き紐を解かれ、二度と戻れぬ補陀洛浄土へ潮任せの旅に出る。
補陀洛浄土を目指して船出した25名の上人の名とその年が刻まれた碑。
住職が還暦前後になると、周囲から捨身行を行わざるをえない雰囲気が作られていった様でもある。
本殿前の観音像の先にその碑は建っています。
後にこうした捨身行は僧侶の遺骸を乗せ極楽浄土に送る形態に姿を変えていったようですが、凡人からみるとこれはもはや修行ではない。
寺号の補陀洛とはサンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」が語源とされる。
創建は仁徳天皇時代(313年~399年)とされる天台宗の寺で本尊は千手千眼観世音菩薩。
補陀洛山寺は那智の七本願(御前庵主、大禅院、瀧庵主、那智阿弥、妙法山阿弥陀寺、理性院、補陀洛山寺)の一寺。
本願とよばれる寺院があり、本宮庵主・新宮庵主の各1ヶ寺と那智山の7ヶ寺の9ヶ寺で社殿の修復・勧進を行ない浄財を募り隆盛を極めるが、明治政府の神仏分離により廃寺となった寺院も多いらしい。
本堂右から参道は熊野三所大神社へ続きます。
熊野三所大神社
杮葺きの三間社流造で4本の鰹木と内削ぎの千木が施された素木の相殿。
古くから熊野那智大社の末社として補陀洛(ふだらく)山寺と共に神仏習合の形態で濱ノ宮村の産土神として崇敬されていた。
社殿の創立は明細帳に「上古祭場の遺跡につき、欽明天皇ノ御宇に社殿創立せしものなりと伝ふ」、『熊野年鑑』では「欽明天皇二十四(563)癸未年熊野浜ノ宮成」とあり、又、『熊野年代記』では「欽明天皇二十四(563)癸未年浜ノ宮宮殿出現」とある。
本社古伝に依ると「往古は唯祭壇のみ在り、社殿造立は前記時代を創始とす」と記され、社殿造営は棟札によると慶安元年(1648)の再建と伝えられる。
熊野詣が盛んな頃は浜の宮王子や渚宮王子とも呼ばれ、熊野九十九王子のひとつで、中辺路・大辺路・伊勢路の分岐点として那智山参拝前にはこの王子で潮垢離を行って身を清めたといわれています。
隣接する補陀洛山寺は浜の宮王子の守護寺としての位置付けだったようです。
明治政府の神仏分離により1873年村社となり熊野三所大神社と改めたのは明治末年の話らしい。
創建は欽明天皇治世(540年~571年)の頃とされ、祭神は夫須美大神、家津美御子大神、速玉大神 を祀る。
本殿左右に石の社が祀られています。
本殿左の社は摂社の三狐神
食物の神を祀る。
社殿正面から全景。
三つの鈴紐は全て巻き上げられ、こうした絵も時代を象徴しているのかもしれない。
紐がおろされるのはいつのことやら。
静かに参拝。
熊野三所大神社由緒
夕陽が差し込む本殿と右の摂社。
左の三狐神と同様の石の社だ。
こちらは丹敷戸畔命
地主の神を祀る。
ここから本殿後方に回り込む事が出来ます。
ちらちらと見えていたこの切妻の建物はよく分からない、宝物殿なのかもしれません。
後方から本殿の眺め。
本殿の先の神門から鳥居方向の境内へ、そこには複数の石標があり、上は摩利支天王の石碑と左が庚申塔。
境内右に公園も併設され、子供達には憩いの場になっているようで、神門から境内にかけて多くの子供たちが元気にサッカーを楽しんていたので写真に納められなかった。
渚の森の解説板
渚の森と呼ばれ古来和歌にもよく読まれた名勝の森で昔の面影は今はない。
解説板の左の木々に包まれた一画に「神武天皇頓宮跡」
神武天皇祭の興隆と共に大正期に建てられたものという、熊野と神武天皇と縁の深さがここにも表れている。
鳥居脇の大楠
樹齢は800年を超えると云われ、根元から二手に別れていることから「夫婦楠」とも。
とにかく見事な幹回り、枝の張りです、渚の森の名残を伝えるシンボルだろう。
楠はなァ、間違っても庭に植えてはいかん、いつ見てもそう思う。
熊野三所大神社鳥居から神門、本殿方向の境内の眺め。
広々とした明るい印象の境内は子供達も集まるはずだ。
鳥居右側に「浜の宮王子跡」の解説板と石碑。
解説内容は以下
『藤原宗忠の日記、『中右記』天仁二年(1109)十月二十七日条に、「浜宮王子」とみえ、白砂の補陀落浜からこの王子に参拝した宗忠は、南の海に向かう地形がたいへんすばらしいと記しています。
『平家物語』には、平維盛がここから入水したと記されていますように、補陀落浄土(観音の浄土)に渡海する場所でした。
那智参詣曼荼羅には、浜の宮王子の景観とともに、この補陀落渡海の様子が描かれています。
また浜の宮王子では、岩代王子(みなべ町)と同様に、「連書」の風習がありました。
連書とは、熊野御幸に随行した人々が、官位・姓名と参詣の回数を板に書いて社殿に打ち付けることです。
応永三十四年(1427)の足利義満の側室・北野殿の参詣では、十月一日に「はまの宮」に奉幣し、神楽を奉納したのち、帯や本結(紐)を投げると、神子女(巫女)たちが、争って拾った様子を、先達をつとめた僧実意が記しています。
三所権現あるいは渚宮と呼ばれていましたが、現在は熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)と称しています。
なお、隣の補陀落山寺は、千手堂あるいは補陀落寺と呼ばれ、本来はこの王子社と一体のものでした。』
鳥居から国道42号線方向に向かい大楠と境内を眺めた一枚。連書とは、熊野御幸に随行した人々が、官位・姓名と参詣の回数を板に書いて社殿に打ち付けることです。
応永三十四年(1427)の足利義満の側室・北野殿の参詣では、十月一日に「はまの宮」に奉幣し、神楽を奉納したのち、帯や本結(紐)を投げると、神子女(巫女)たちが、争って拾った様子を、先達をつとめた僧実意が記しています。
三所権現あるいは渚宮と呼ばれていましたが、現在は熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)と称しています。
なお、隣の補陀落山寺は、千手堂あるいは補陀落寺と呼ばれ、本来はこの王子社と一体のものでした。』
これでも楠の全景は入らないか。
そのまま今夜の車中泊予定の「道の駅 なち」を偵察。
平成22年にオープンした事もあり設備も綺麗で入浴施設や周囲に食事処も多く絶好のロケーション。
しかし待てヨ、あまりに国道に近すぎる、過去に夜中に長距離トラック近くに停車、一晩中エンジンがかけていて寝れなかった事を思い出す。
ここは湯もあり自分としては捨てがたい・・・・・もう一つの候補地に変更とした。
補陀洛(ふだらく)山寺
宗派 / 天台宗
創建 / 仁徳天皇時代(313年~399年)
本尊 / 千手千眼観世音菩薩
開山 / 裸形上人
所在地 / 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字浜の宮348
熊野三所大神社
創建 / 欽明天皇御代
祭神 / 夫須美大神、家津美御子大神、速玉大神
境内社 / 三狐神、丹敷戸畔命
神倉神社から車アクセス / 「神蔵神社」から国道42号線(那智勝浦新宮線)を南下、那智勝浦ICを降り県道46号線43号線経由、補陀洛山寺まで20分程
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2021/02/21
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