富山県高岡市「射水神社」

 前回掲載した「黒河神社」を後にして、そこからすぐ近くにある当初の目的地「麺屋いろは」で富山ブラックラーメンを食べ終え、お腹も満たされたところで、次の目的地「高岡古城公園」に鎮座する「越中國一之宮射水神社」を目指す。

「麺屋いろは」から高岡城址まで県道348号線から県道44号線の「古城」交差点の左が「高岡古城公園小竹藪駐車場」約30分程で到着。

高岡古城公園の北側に位置する「小竹藪駐車場」。
入口に係員の方がいて「有料?」と思いきや実は無料、懐に優しい有難い駐車場だった。
しかも他府県ナンバーなのに気付き御親切にも神社までのルートや高岡大仏までの道を教えてくれた。
県外から訪れた者に対する心遣い、高岡の町は優しく歓迎してくれた。
駐車場の南側に写真の石碑があり、ここから公園内にアクセスが可能。

高岡古城公園は加賀藩初代藩主の前田利長が築いた高岡城の城址を明治時代より公園として開放したもので、富山県指定史跡、国指定史跡に指定されています。
写真は石標から園内に入りしばらく歩くと、外堀に架かる赤い欄干の橋「朝陽橋」。

橋を渡って右側から見る朝陽橋、周辺には桜が多く見られます。
「日本さくら名所百選」にも選ばれる公園で園内には約2700本の桜が咲き誇るそうだ、しかし3月末では蕾は固い、それでも僅かにピンクに色付いてきていた、満開の時はさぞかし綺麗な事だろう。

朝陽橋から石段を進むと視界は広がり広場が現れます。
高岡城本丸広場と呼ばれ正に本丸があった所、ここも周囲は桜がいっぱいだ、ピンクの幕が広場を取り囲むに違いない。

射水神社はこの本丸広場に鎮座します。
江戸時代の城跡に社殿を構える一宮は全国でも珍しいと云われています。

高岡城は1609年(慶長14)前田利長の隠居城としてが築かれたものだという。
隠居城として使われたのは僅かな期間で、1614年(慶長19)に利長が死去、翌年の1615年(元和元年)の一国一城令により廃城の道を辿ったようです。
現在、城の面影は堀と護国神社へ向かう途中の石垣が遺構として残っています。

本丸広場の途中に鳥居が現れ境内が見えますが、これは脇参道、広場を更に南に進むと左に続く道が現れます、そちらが正参道へ続きます。

越中國一之宮 射水神社全景。
大鳥居の左に「国幣中社射水神社」と刻まれた社号標。
そこには地元敬神家の名が刻まれています。
境内右が参集殿、左に手水舎、社務所、中央に神明造の拝殿が見えます。
桜には早いけれど参道両脇の紅梅と白梅が彩りを添えています。
伽藍から古びた印象は感じません、現在の姿は1900年(明治33)に起きた高岡大火により社殿を焼失、1902年(明治35)に再建されたもの。
この高岡大火は市街地の6割を焼き尽す大きな災害だったようです。

参道の射水神社由緒
祭神 二上神 例祭日 4月23日
北西五㌔の二上山にこの神の降臨は悠久の古代に属し、詳らかでないが675年、天武天皇の三年(皇紀1335)正月奉幣に與られた傳承を以て鎮座の年と定めた、次いで慶雲3年初めて祈年奉幣の例に入り宝亀11年從五位下の神階に 叙せられ延喜の神名帳には越中唯一の名神大社に挙げられた。
やがて戦国の世屡ゝ兵火に罹り頽廃したが前田利家・利長の保護により輪奐を改め明治四年國幣中社に列した。
維新の神佛分離規則に從い且つは広く県民の崇敬に迎え られ寺坊所管の二上を離れて明治八年九月現在地に遷座せられた。
境外摂末社
日吉社 大山咋神 四月十八日 (二上山第一峯山頂 奥の御前)
悪王子社 地主神 五月十三日 (二上山第二峯山頂 奥の御前)
院内社 菊理媛神 五月三日 (二上山の前面北峯「院内の谷」)
諏訪社 建御名方神 八月二十七日  (二上山前面西麓 上二上)
高岡市護国神社 殉國諸神 十月一日  (高岡城址内)

栞には以下のようにも書かれている。
「創始は太古のことで、年代は詳かではないが、延喜式内名神大社であり、越中文化発祥にゆかり深い大守護神として崇敬せられている。
社伝によれば、養老年間、僧行基二上山麓に養老寺を建て、この神を祀り、二上権現と称した。
当時の領域は、二上荘六十七カ村、社寺は二上全山に亘り二十二万余坪に達したと云われ、越中全土の各戸より毎年初穂米一升奉納の制があり、盛大を極めた。
その後、承平ら天正の両度兵火により悉く烏有に帰し一時衰頽したが、慶長年間、前田利家卿社殿再建の上、社領および一山を付し、国内に命じて初穂米奉納の制を復活し、明治維新まで続いた。
明治四年、国幣中社に列格し、同八年、高岡城本丸跡の現在地に遷座され、同三十三年六月、高岡大火の折類焼、同三十五年復活。
特に昭和の御代、五十年四月には「日本書紀」に天武天皇三年(紀元千三百三十五年)正月、奉幣に与ったことが見えることより起算して鎮座千三百年式年大祭を斎行。
畏きあたりより奉幣の栄に浴した。
また、昭和五十九年には新たに「参集殿」が竣工、輪奐に一層の光彩を加えた。
幾歳の春風秋雨ありと云え、我が日本の神々は、徒に腕力や智力を以て秘と嚇し掠める逆賊を懲らし、朝夕に忠実な國民を援け、まごころ篭めて働く人々を庇い、而して、邪心無き老若男女や、寄る辺無き遺族に啓示垂れ給うなど、皇室を尊崇し、公私を違えず、最も大義名分を明らかにする處に光被し給うのであります。」

射水神社から4㌔ほど北の古矢部川左岸の二上山が神体山で、往古より二上山の麓の二上という地に鎮座していたが、明治に入り、現在地に遷座するにあたり産土神をなくす二上の氏子の反対により、古社地にも分社が残され、1875年(明治8)に現在地の高岡城址に遷座した。
こうなると二上山には行きたいところ、プランナーのかみさんの表情にはその余裕はなさそう。

高岡の町は1821年(文政4)と1900年(明治33)に大火に見舞われ、なかでも明治の高岡大火では市街地の約6割を焼き尽す大きな被害をもたらしたようです。
現在の姿は大火により社殿を焼失、二年後の1902年(明治35)に再建されたものです。
日本海側はこうした大火は起きやすいけれど、地元のに住む人の英知で都度復興してきた。
伽藍から古びた印象を感じないのはそうした経緯もあるのだろう。

手水舎
2015年(平成27)に斎行された遷座百四十年祭の記念事業の一環として竣工した新しいもの。
この時期は梅が見頃を迎えるようだ。

一ノ鳥居左右に梅。

紅梅解説。
遷座の際に二上の地より移されたもの、樹齢は400年を超えるようだ。
手水舎脇の紅梅はこの梅の孫にあたるらしく、そうした事から子孫繁栄や不老長寿の象徴とされ、幹にできた空洞がハート形に見える?ことから縁結びの御神木として良縁を求める参拝客が多いそうだ。

一ノ鳥居、木造の神明鳥居は2015年の伊勢神宮の豊受大神宮の北御門を移設したもの。

外拝殿・拝殿全景
直線的でシンプルな簡素な外観は伊勢神宮の「唯一神明造」に基づいているという。
右斜めから、千木は4本、残念ながら本殿を垣間見ることは叶いませんでしたが、伊勢神宮を踏襲した造の様です。

内削ぎの千木とシンプルな外観に相応しい上品な飾り金具。

銅板葺の屋根ですが、もともとは杮葺きの屋根だったようです。

拝殿正面に掲げられている扁額。
第12代加賀藩主の前田斉泰の筆によるもの。

拝殿から幣殿方向の眺め。
もともとは内開きの扉が付けられた中門で注連縄の上方に「射水神社」と記された扁額が掲げられいますが有栖川宮熾仁親王のご真筆だそうです。

拝殿から大鳥居方向の眺め、この先には摂社高岡市護国神社、外堀に架かる春駒橋を渡ると高岡大仏のある大仏前通りに続く。

一ノ鳥居解説。

この紅白の梅が印象に残る「越中國一之宮 射水神社」です。

3月末の園内では春の妖精「カタクリ」が春の訪れを告げていました。

2021/3/23

「越中國一之宮 射水神社」
創建 / 不明
主祭神 / 瓊瓊杵尊
住所 / ​富山県高岡市古城1番1号
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黒河神社から車アクセス / 黒河神社➡麺屋いろは➡​小竹藪駐車場まで約30分程


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