『熊野本宮大社』
産田社から長閑な田園地帯の参道から右に5分程で目の前に国道168号線が現れる。
国道沿いに『熊野本宮大社』の大鳥居が建っています。参拝客は大斎原や産田社に比べると当然ながら多い。
鳥居左方向に本宮に一番近い駐車場があるけれど既に満車のようだ。
本宮参道口。
社号標、燈籠、狛犬、明神鳥居など本宮に相応しい大きなものだ。
大斎原の日本一の鳥居を見てからだとそれもやや霞んで見えてくる。
鳥居扁額「熊野大権現」
鳥居左に三本足の八咫烏が描かれた大きな幟。
八咫烏のマーク入りマスクを付けられた狛犬。
緑に包まれた参道。
両脇の奉納幟は途切れることなく上まで続く。
参道はここから158段の石段となる。
「功霊社」
石段の途中にあり、過去の戦争における戦没者の霊が祀られています。
「功霊社」から石段を更に上った左に「祓戸大神」。
積もり積もった罪や穢れをここで清めてから上に進みます。
158段の石段も間もなくゴール、右手の手水舎で再び清め・・・・・
コロナ感染症対策でこちらの手水舎は使用中止。
この先の社務所前に手水があるのでそちらで清める。
上
熊野神社は全国に4776社もあるのだそうだ、全国各地からこの本宮を訪れる。
下
旧本宮社殿絵図
熊野川とそこに流れ込む音無川と岩田川の二本の支流が作り出した中洲「大斎原」は約1万1千坪の境内に5棟12社の社殿に楼門、神楽殿や能舞台など、現在の数倍の規模を誇っていた。
それも1889年(明治22)の大洪水で旧本宮は被災、鎮座していた上、中、下社の各4社の内、上四社を除き甚大な被害を受けた。
大斎原から約700㍍上流のこの高台にはもともと「祓戸天神社」が鎮座していたが、1891年(明治24)にここに上四社を遷座したのが現在の姿。
宝物殿。
「三角縁神獣鏡」や日本で二番目に古いとされる「鉄湯釜」、「熊野本宮八葉曼荼羅 」など展示されている。拝観料は300円。
石段を上り切ると社殿域。
正面に神門、左手に社務所、拝殿と続き、右手に授与所。
上
神門右手の由緒書き
「東御前(若宮)天照大神。
御本社(證誠殿)家津御子大神(素戔嗚尊)。
西御前(速玉宮)速玉大神(伊邪那岐大神)、(結宮)夫須美大神(伊邪那美大神)
当宮は熊野三山(本宮・新宮・那智)の首位を占め、全国の熊野神社の総本宮で熊野大権現として世に知られている。
主神は素戔嗚尊、樹木を支配する神で紀国(木ノ國)の語源もここから起きています。
植林を奨励、造船技術を教え、外国との交通を開かれ、人民の幸福を図られるとともに生命の育成を司られた霊神。
第十代崇神天皇の御代に熊野連が当地に社殿を造営し鎮祭したと伝えられる。
奈良朝の頃から修験の行者が頻繁に出入りし修行した事から更に神威が広まった。
延㐂(喜)7年、宇多法皇の御幸をはじめ約300年に渡り法皇・上皇・女院の御幸は百数十回に及び熊野御幸と云われる。
神仏習合によって御主神を阿弥陀如来として尊び、日本一と云われた霊験を仰ごうと全国各地から熊野の深山幽谷を訪れ「蟻の熊野詣」や「伊勢に七度、熊野に三度どちら欠けても片参り」とまでうたわれ、それと共に全国に分社が祀られ現在5000社を数える。
戦乱の中でも人々の信仰は高まり、神威は熊野牛王(おからす様)の神符とともに伝播していった。
現在の社殿は享和2年、徳川家斉により大斎原に建立されたが明治22年の大出水で現在地に修造、遷座されたもの。社殿の造りは熊野造り」
下
旧社号標と解説。
「当社の社号は熊野本宮大社であるが、延喜式神名帳に「熊野坐神社」と記されている。
その後「熊野本宮」という名称が定着したが、明治4年「熊野坐神社」を正式社号として登録、公表した。
この社号標は昭和15年の建立で時の首相による揮毫」
神門に掛けられた大きな幕や注連縄、その先に本殿が見えてくる。
「前進」
本殿全景。
手前から入母屋檜皮葺平入の建物が西御前と中御前、その右の妻入りの建物が本殿、更に右が東御前と並び、写真では入っていないけれど一番東側に満山社が鎮座する。
第四殿までが透塀で囲われ其々中門が付く。
第一殿 祭神は夫須美大神(伊邪那美大神)
第二殿 祭神は速玉大神(伊邪那岐大神)
一つ屋根の下で夫婦神が鎮まる。
1802年(享和2)の建立。
第三殿 祭神は家津御子大神(素戔嗚尊)
1810年(文化7)の建立。
第四殿 祭神は天照大神。
1802年(享和2)の建立。
夫婦神の子がすぐ近くで鎮まる。
満山社
結びの神・八百萬の神を祀り、2007年(平成19)に115年ぶりに復興されたもので、お祀りされている玉石は人と人を結ぶ再生の玉石だそうだ。
さあ賽銭を準備して参拝。
まずは第三殿の素戔嗚尊、次に第二殿の伊邪那岐大神、そして第一殿の伊邪那美大神、次に第四殿で天照大神、最後にこの満山社に参拝するのが正しい参拝順です。
拝殿後方から神門方向の眺め。
境内左奥の「和泉式部祈願塔」
苔むした小さな塔は大斎原に立っていたがこちらに移転されたもの。
平安中期の歌人和泉式部がようやく本宮参拝を前にして「晴れやらぬ身に浮雲のたなびきて 月の障りとなるぞ かなしき」と悲しみを詠んだという。男には分からない自然現象だ。
その夜、熊野権現が夢に現れ「もろともに塵にまじわる神なれば 月の障りの何かくるしき」と詠み返してきたという。「悲しむな、心苦しく思う事はない詣でなさい」
そのお告げに導かれ和泉式部は参拝を果たしたという。
熊野権現(阿弥陀如来)の慈悲深さを表すものかもしれない。
神門を出て社務所に向かいます。
社務所前の手水鉢。
入母屋平入で唐破風が施された拝殿、左右には丸い大きな石に八咫烏が描かれ、一方の対座には天・地・人と刻まれています。
参道手前に大きな狛犬。
白くて大きな狛犬は感染防止対策も完璧だね。
早く顔が見たいものだ。
八咫ポスト
拝殿に向かう参道の左に置かれ、ここから絵馬を投函すると八咫のスタンプが押されて配達されるようで、結構投函される方を見かけました。
上
八咫ポストの上には神の使い八咫烏が羽を広げ飛び立つばかり、コロナ終息へ導いてくれるのでしょう。
下
八咫烏由来
「熊野では八咫烏を神の使者と云われます。
三本足は熊野三党(宇井・鈴木・榎本)を表すと云う。
当社の主祭神家津御子大神(素戔嗚尊)の御神徳である智・仁・勇、また天・地・人の意を表している。
烏は一般に不吉の鳥としてされてきているが、方角を知るので未知の地へ行く道の案内や、遠隔地へ送る使者の役目をする鳥。
熊野の地へ神武天皇東征の砌、天皇が奥深い熊野の山野で迷った時に八咫烏が導いたとされる。
また源平合戦では、那須与一出身地の烏山城は烏が金の御幣をこの地にもたらしたことから築城したとも云われる。
人の道開きの開運、人生、目的達成、旅行安全、通学安全等を守護するとして仰がれています。
そうしたことからJFAのシンボルとして採用されているようです」
導く者がはっきりしないこのご時世、八咫烏が現れ今を導いてくれないだろうか。
熊野本宮大社
創建 / 崇神天皇65年
祭神 / 素戔嗚尊、伊邪那岐大神、伊邪那美大神、天照大神
境内社 / 満山社、功霊社、祓戸大神
住所 / 和歌山県田辺市本宮町本宮1110
産田社から徒歩アクセス / 北に5分程
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参拝を終え、御朱印も頂いた、158段の石段を再び戻るのも良し、右にある細い熊野古道で下まで下りるも良し、どちらを進もうか?
私達は熊野古道で下まで降りる事を選択した、それとて楽な道ではありませんでした。
下は相変わらず駐車場の空きを待つ車が見受けられました。
少し歩けば熊野川の河川敷に広大な駐車場があります、そちらに回るのも一つの選択肢かと思います。
尚、写真撮影は社務所に声掛けはお願いします。
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